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母と娘


案の定、彼女は目を覚ましました。

数日前、一般病院の精神科から転院してきた70代後半の彼女、ニコニコしてベッドで寝ています。

癌の末期、意識レベルは3桁で、動くこともないし、手が掛からない患者さんです。別に手が掛かろうが、走り回ろうが、そんなこと関係ないのですが、向こうの医師からそんな風な申し送りがありました。

「たぶん目を覚ますから、ベッドから転落をしないように気をつけてね」

そう緩和ケア病棟の主治医が看護師に指示を出しました。察しのいい看護師は「ガッテン!承知」です。

転院した来た当日の彼女、気持ちよさそうに寝ており、呼吸は安定、表情も穏やかです。脱水予防で最小限の輸液を投与しました。

そして数日後、予想通りに開眼。直ぐに点滴中止とペースト食開始の指示が出ました。

さてさて、彼女に何が起きていたのか?

何てことはなく、不眠だったり、不穏症状があると、すぐに安定剤や睡眠導入剤を与える医師がいます。

いや、それが悪いと言う訳でもないし、そうでもしないと、叫んだり、徘徊したり、他の患者さんへの迷惑行為で看護師が大変になっちゃいます。転倒したり、転落したり、怪我でもされたら病院も困ります。

ただ、盛りすぎはねぇ。

緩和ケア病棟に転院してきて、薬を断って、ゆるゆる点滴して、尿の管理して、どうやら薬が体内から排出されたのでしょう。彼女は意識を取り戻しました。

既往には認知症や統合失調症、不安神経症、鬱病などがあります。そこに癌を発症するも手術の適応はなく、ご家族の希望で精神科に入院していました。

そんな彼女が目を覚ましので、ご家族に今の状態について説明するため、来院して頂きました。

てっきり喜ぶかと思いきや、娘さんの言葉は想像だにしないものでした。

「娘のあたしが面会に来たら、帰る!と言い出すに違いありません。家には連れて帰れないのに、帰る!と泣かせるのも可哀想です。なので、母が弱って、帰れなくなったら来ますが、それまでは母には会いません。母には仕事で忙しくしていると伝えてください。」

病棟に母親の好きなお菓子やオムツの替え、洗濯したパジャマなどは持ってくるが、顔は見ないということでした。

病棟は完全看護ですし、面会に来て下さい!と強制できるものでもありません。主治医に相談、定期的に娘さんに状態を伝えるようにしました。

娘さん、仕事の都合なのか、病棟に来るのは決まって就寝時間の21時前後、母親への差し入れと、医師と看護師への差し入れを置いて立ち去りました。

あたしも夜勤で何度かお見かけしましたが、「まだ、寝たきりになっていませんか?」と聞かれた時は、思わず娘さんの胸ぐらを掴みそうになりました。

心のなかで自分の顔をパン!と叩き、夕食の献立を伝え、どれだけ食べたか、昼間は何をして過ごしているかなどを報告しました。

元気そうにしていても、徐々に癌は進行し、やがて彼女は寝る時間が増えていきました。そして、起き上がれなくなったことを担当の看護師が伝えると、面会に来ました。

「やっと来ることができました」

それから何度か面会に来て、娘さんは動かなくなった亡くなった母親を連れて退院しました。



時計草