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母娘


彼女の病室は、異臭が充満していた。

ナースコールが鳴っても、彼女の病室と分かると行きたがらないスタッフ。

「主任さん、行ってきてや」

いつもは○○さんと名前で呼ぶくせに、調子いいんだから。

「ほら!待たさんと、さっさと行く!」

きっちりとマスクをして、スタッフが重たい腰を上げる。

スタッフが行きたがらない患者さん、彼女は乳癌の末期だった。でも、普通はあれほどの異臭を放つことはない。

40歳になったばかりの彼女、乳癌が見つかり手術を勧められていた。しかし、母親が娘の介護がなければ困る!と手術をしぶり、とうとう手術も出来ない状態になったらしい。

癌は、昔は「岩」と呼ばれていたらしいが、まさしく乳の皮膚を突き破って出てきた癌は岩のようだった。

右の胸から右肩、右の上腕、そして背中へと癌は増殖し、ゴツゴツした癌が皮膚から盛り上がっていた。

それが腐り、悪臭を放つ膿がガーゼから漏れ出てきて、病衣を濡らしていた。

「ガーゼを替えてください」

ちんたらやると余計に苦痛が強くなる。手慣れたスタッフが手際よく処置をしていく。

皮膚を洗浄し、軟膏を塗り、皮膚にくっつかないガーゼを何枚も重ねておき、包帯で固定していく。

彼女の処置のために、専用のガーゼセットを用意してもらっているので早い。

他の患者さんの処置をするときは、たいてい笑いながら会話をすることが多い。しかし、彼女も痛みを堪えているし、スタッフも息を殺して処置をしている。

失礼だが、食事の前に彼女の処置をすると、一時、食欲が戻らなかった。いくら看護師と云えども、あの肉の腐った臭いには、どうしても慣れなかった。

ただ、彼女の母親は娘の部屋に寝泊まりし、最期まで付き添った。

母親は、何一つ弁解する訳でもなく、ただ、娘の部屋にいた。看護師によっては、母親のわがままで娘さんが手遅れになって可哀想と言っていた。でも、ほとんど思いを表出しなかったふたり。本心は分からない。

廊下側の扉を開けると異臭が漏れだし、他の部屋の患者さんが嫌がった。だから、部屋の扉はいつも閉まっていた。

あの異臭のする部屋にふたりきり。ふたりはどんな思いで過ごしていたんだろう。

日に日に腐っていく娘の側に居る。そうすることが母親の贖罪しょくざいだったのだろうか。

癌は首から顎、そして頬の方へと増殖ぞうしょく、とうとう口が動かなくなった。

こんなに苦しんでいるのに、苦しむだけでは人は死ねないのかしら。若くて心臓が強い、だから余計に死ねなくて、苦痛が長引くかもしれないと医師が言った。

「大丈夫ですか」なんて、口先だけの言葉は発することが出来なかった。やるべきことを最短時間、最善の手技で、可能な限り迅速に行い、苦痛の時間が少しでも短くなることに専念した。

彼女が亡くなったとき、まだ癌に犯されず、日常を送っていた頃の写真を借りた。そこに写っているのは、わたしたちの知らない彼女だった。

最期のシャワー浴を行い、写真を見ながら、丁寧にお化粧をした。

「娘さんのお顔を見て頂けますか」

綺麗に化粧した娘の顔を見て、母親が静かに頷いた。


桐一葉きりひとは闘病三年もう飽きた
末期癌ひとりの夜更け蚯蚓みみず鳴く