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彼のいた椅子



廊下の突き当たり、右側の角部屋が彼の病室でした。部屋は狭いけれど角部屋、窓が東と南にあって、明るくて開放的な感じでして、人気の部屋でした。

肺癌の彼、酸素投与は必要なかったけれど、横になると咳が出て呼吸がしんどくなると、昼も夜も部屋の隅に置いた椅子に座って過ごしていました。

「しんどくないですか?座ってばかりだと、腰が痛くなりませんか?」

「しんどい」

相談して、オットマンを用意しました。病棟にはなかったのですが、今後も使いたい人がいるかもしれないからと、病院に買ってもらいました。

話すとしんどいし咳も出るし、見舞いに来る家族もいません。自然と無口になって、彼の病室はいつも静かでした。

検温に行っても、体温や酸素飽和度を測り、胸や腹の音を聴いて、手足が浮腫んでないかみたらすぐに終わります。

「座ってばっかりでいたら、肩や背中が凝りません?あたし、マッサージ上手うまいですよ」

「じゃあ」

おっし!心のなかでガッツポーズ。

緩和ケア病棟で働きはじめて直ぐに、先ずは美容向けのマッサージの資格を、それから、医療向けのリンパドレナージュセラピストの資格を取りました。

どうせやるなら気持ちいいだけでなく、理論的に学んで、確かな手技を提供したいと思いました。

食も細いし、頻回に咳をする彼の体には肉が付いておらず、肩を揉もうとしても骨が手に当たります。

薄くなった皮膚が剥がれないよう、ぴったり手のひらを皮膚にそわせて、ゆっくりと円を描くようにしてほぐしていきました。

何も喋らない彼、でも、「もう、いい」とも言いません。気持ちいいのかな?嫌ならもういいと言うだろうし、このまま続けてということにしておこう。

マッサージしたり、傾聴したりするときは、事前に他のスタッフに、もし、あたしの担当患者からナースコールがあったらお願いね!と依頼していました。

余程のことがない限り、その時間はその人のためだけに使うようにしてあり、それは他のスタッフも同様でした。

携帯も他のスタッフに預けてあるので、誰も邪魔するものはありません。ただ彼とともに居て、手を当てる。

横になることのない布団でしたが、それでもシーツ交換はしていました。彼が横になったのは、亡くなる4日前だったかしら。

呼吸が苦しくなり、自分から、「酸素、してもらおうか」と。椅子に座ったままで酸素をしていましたが、眠っていると時間が増え、「布団で寝ませんか?」と聞くと、「うん」と頷きました。

彼が亡くなってからも、その部屋には次々と患者さんが入院してきました。でも、たまに誰も居ないときがあります。

夜勤の夜、暗い部屋で、彼の椅子に座って、静かに目を瞑って過ごすことがありました。

ただ座って、死が来るのを待つのは、どんな気持ちだったのだろう。怖かったのかしら。

でも、一人だけれど独りではない。彼が握りしめていたナースコール、綺麗に束ねられて壁に掛かっていました。

せめてこの病室にいることで安心感だけでも持ってくれていたら、そう願うのみでした。


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