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繋がっていたい


大切な人を独りで逝かせたくない。

そう思って、ある人は病室内にあるトイレを使うときも入口を開け放していた。ある人はお風呂に入っている間に容態が変わることを心配して、ずっと体を拭いていた。

また、ある人は自分の手首と相手の手首とを紐で繋いで、少しでも相手が動いたら気づくようにしていた。

どうして人は繋がっていたい、絆が欲しいと思うのだろう。

執着しやすいわたしは、自分から求めた絆に自分ががんじがらめになる。だから、あまり人やモノへの執着心は持たない。いや、持つけれど、持っている自分に気づいたら慌てて手放す。

大切な人を想う気持ちはわたしにもあるし、理解できないことではない。それでも、死にゆく人にも自由になる、ひとりになる時間を持つ権利があると思う。

☆☆☆

「少しの時間でいいので、妻を部屋から連れ出して欲しい」

どうやら癌が見つかり、手術して、抗癌剤の治療をして、医師から余命宣告されて、緩和ケア病棟に来て、、、その間、ずっと側には妻がいたらしい。

それはありがたいし、感謝しているが、もう時間がない。ひとりになって考えたいことがある、と彼は言った。

「その気持ち、ご自分で伝えませんか?」

看護師から伝えることもできるが、やはり、自分の口から言うほうがいいのではないか。

時間がないと自分で分かっているなら、妻に心から感謝しているなら、心地よい言葉だけではなく、辛い言葉も自分で伝えるべきだ。

自分の思っていることを彼に伝えた。あとは彼が決めればいい。

☆☆☆

「家に帰って、お風呂に入ってきます」

ナースステーションに来た妻がそう告げた。

「分かりました。何かあれば直ぐに連絡するので、携帯電話はお持ちくださいね~」

彼も妻も、今のわたしの年齢と変わらない。わたしはいつも傍観者で、当事者ではない。ただ彼らの気持ちを想像するだけだ。

単に、人より少しだけ多く、人の死に接してきたので、人の生き死にとはこんなもん、と勝手に思っている。

でも、第一人称の死、それは別ものだろう。誰かと繋がっていたいかな。最期の身震いに気づいて欲しいかな。

やっぱりこれまで通り、ひとりが気楽かな。


秋冷しゅうれいや余命数えるカレンダー
夫逝つまいくや花壇の向こう秋の声