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利休梅

父が亡くなったのは、ちょうど新コロが日本上陸を果たし、世間が騒がしくなろうとした矢先でした。

寒い日でしたが、残り少ない親族が集まり、小さな葬式をあげました。

五人兄弟の末っ子だった父、兄も姉も一人を残して、みんな先にあの世へ旅立ちました。

認知症を患った兄が葬儀に参列してくれましたが、何度も父の亡くなったことを説明してやらないとダメでした。遠く離れて暮らしている二人、今さら、亡くなったという事実に意味があるのかなと思ったもんです。

今日の俳句は、父との思い出なんぞを詠んでみました。


煤払い父の写真とりんの音
晦日蕎麦くしゃみのようなおりんの音

(すすはらい ちちのしゃしんと りんのおと)(みそかそば くしゃみのような りんのおと)

季語は「煤払い」と「晦日蕎麦」です。どちらも同じ場面を詠んでいます。

晦日蕎麦とは、大晦日の夜に食べるお蕎麦のことです。由来は諸説あるそうですが、細く長いことから、延命長寿を願う縁起物として食べるともいわれるそうです。

我が家はものぐさ集団だったため、本格的な晦日蕎麦とは縁遠く、緑のたぬきでした。

ただ、老いた父と同居を始めてからは、わざわざ、蕎麦にのっける具も買ってきて、晦日蕎麦を楽しみました。といっても、早寝の父なので、夕食の献立でした。

あれからは、一人の年越しなので晦日蕎麦を作ることもありません。すっかり父のいない生活にも慣れ、気づけば年の暮れ、おりんを見れば埃が被っています(苦笑)。

たまに鳴らすおりんはくしゃみのような音がします。なんて、単に埃がたまっているからですが、泣きそうな自分がくしゃみして誤魔化しているという深読みは、無理ですね。

「煤払い」は、新年を迎えるために、家屋や調度の埃を掃き清める風習のことです。

昔は、頭に手拭いを被り、ハタキを手にパタパタと埃を払ったもんです。でも、真面目に掃除をするのも束の間、すぐに弟とハタキで叩き合い。そんな光景も、今では見られなくなりました。

年末くらいは拭き掃除をしよう。見ると父の写真にもおりんにも、うっすらと埃が(笑)。娘は逞しく生きております!の証の埃です。


除夜の父バケツ五杯の足湯かな

(じょやのちち ばけつごはいの あしゆかな)

季語は「除夜」です。これは、父が亡くなる前の思い出です。

歩かなくなった父の足には筋肉が少なくて、寝床に入っても足が冷えて眠れません。

そこで、お湯を沸かして、タライに父の足とお湯を入れて温めたものでした。氷のような父の足で、すぐにお湯が冷めてしまいます。何杯も風呂場からお湯を運んだものです。

他に家族がいれば、バケツリレーで運べたでしょうに、残念です。


利休梅二輪今年の帰り花

(りきゅううめ にりんことしの かえりはな)

季語は「帰り花」です。小春日和に誘われ、季節外れに花が咲くことです。

利休梅は父が植えた木です。ほわんと薄く、白い花弁の、わたしの大好きな木です。

暖かい日が続き、小さな利休梅が二輪咲いているのを見つけました。これまでは、帰ってこなかった母も、父と一緒なら、今年は帰ろうと思ったのかしら。

ところで、この句を詠んで、手直ししながら寝かしているうちに、すっかり寒くなりました。今朝はあまりの寒さに鳥も虫も鳴き声が聞こえません。

ご自愛ください。