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わたしで生きる(若気のいたり、無鉄砲さは何歳まで許される?)

花留さんが初めて海外旅行-といっても当時まだイギリス領だった香港だけど-へ行ったのは22歳のときだ。

出来ることなら、10代というもっと感受性の豊かな年頃に海外へ行きたかった。しかし、自分で稼いだお金で行くことにこだわっていたら22歳になっていた。

たったの2泊3日の香港滞在だったけれど、まさにガツンと頭を叩かれたみたいな衝撃というか、異文化ショックを受けた。

「外国に行かないと!」

別に外国に行って何かしたい訳でもないし、若者特有の「自分探し」への憧れ程度のことだったのかもしれないけれど、何処でもいいから「行かねば!」と思い込んでしまった。

今、振り返っても、若い時は「自分探し」という大義名分があるからいい。明確な目的や目標がなくても「自分探し」というだけで、行動のお墨付きがもらえる気がする。

アラ還にもなって「自分探し」で旅に出たいと言ったら、応援してくれる人もいるだろうけれど、呆れる人が多いかな。

・・・

花留さんは、青年海外協力隊に入って発展途上国で働きたいと思った。これなら、JICAがバックにいるから安心だし、海外に滞在している期間の給与も少額ながらももらえるし、ここから新たな夢や目標とかが見つかるかもしれない。

失敗したらどうしようとか後ろ向きなことは頭に浮かばず、ヤル気満々で働いている姿が想像されるばっかりだった。

一次試験に合格。二次試験は東京だった。

手芸が得意だった花留さん。特に手芸を習ったわけでもなく我流だったが、現地に行けばそこにあるモノを使って、オリジナル作品を現地のみんなと作り上げればいい、と考えていた。いたって前向きだった。

だから不合格なんて想定外だった。

怖いもの知らずというのか、単なる無鉄砲といのうか、直ぐに事務局へ電話して不合格の理由を訊ねた。

「以前に病気をされていますね。」

花留さんは1年前に卵巣嚢腫の手術をして、その後も服薬治療をしていたが、受験をする時には治療も終わっていた。

用心深い花留さんは、事前に主治医にお願いして診断書を用意して提出していた。だから大丈夫と思っていたのに、まさか1年も前の病気が自分の未来の邪魔をするなんて。

電話で結構ごねた花留さんだったが、丁重にお断りをされて、協力隊は断念した。

でも、人生っておもしろいもんで、1つ道がダメになっても他にも幾らでも道はある。

大阪の町をプラプラしていたら「ワーキングホリデー」の説明会のポスターを目にした。

それまでワーキングホリデーなんて聞いたこともなかったけれど、何か予感がして本屋へ直行した。今なら簡単にネット検索ができるけれど、今から35年近くも前のことだ。

ワーキングホリデーは、半年間、海外で働きながら旅行ができる。うまくいけば、さらにもう半年間滞在できそうだった。

「海外で働きながら暮らせるなんて最高!」

早速、オーストラリアのワーキングホリデービザを取得した。両親には、全てが決まってから事後報告した。

(短大受験も就職も全てが事後報告という前科持ちなので、親も慣れていた)

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大都会のSydneyよりもMelbourneに惹かれ、南半球へ飛んだ。

英語は現地で暮らしていたら慣れるだろう、と他の多くの日本人のように語学学校に入る予定はなかった。つまり、ヒアリングもできないくせに無鉄砲な度胸だけはあった。

だが、やはりヒアリング力がないおかげで、SydneyからMelbourne行きへ乗り換える時、間違ってゲートから出てしまった。

焦ったー!

片言英語で、自分はMelbourneに行くことや荷物が飛行機に残っていることを説明した。

思いは通じるもんだ。

裏口みたいな所から誘導され、何故か1番に飛行機に案内された。座席に座った時のあの感動は今でも覚えている。

Melbourneに到着。しかしベルトコンベアを目が回るくらい眺めても自分の荷物は回らなかった。

「まあ、Melbourneに着いたし、お金もあるパスポートもある。とりあえず、よし!」

腹をくくると状況は開けてくる。視線をずらすと、自分のバックパックが壁に寄りかかっているのが見えた。

・・・

若いうちの自由奔放な無鉄砲さとか、向こう見ずな行動とかは、もちろん、他人に迷惑をかけたらダメですが、そこそこの迷惑ならば相手に目をつぶってもらい、やりたいことを自由にやってみればいいと思っている。

子どもの頃は、人として社会で生きていくために必要な社会性を身に付けるために、親の管理のもとで自由にふるまいながら、失敗を重ねることで健全な大人になった。

ひと通りの社会性を身に付けたら、今度は、自分の「器」を知るために若いうちに行動をしてみる。花留さん的には、自分の「器」を知るための行動は、早い段階で始めることをオススメする。

自分という「器」が固まって、柔軟性が無くなる前に自分を知ることは、その後の生きやすさにも繋がる気がする。

花留さんは両親との関係が不協和音で、意地ばかり張って生きてしまった。生きづらさに押し潰されそうにもなったけれど、それでも生きてきたのは、若いときの無鉄砲な行動の「貯金」が自分への根拠のない自信になっていた。

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花留さんの無鉄砲な行動は32歳まで続いた。世でいうところの「moratorium」か。

ところで、無鉄砲さが許されるのは何歳までだろうか?まだまだ若いと思っている自分、でも、無鉄砲さには気力も体力もいるので、アラ還の私は、そろそろ落ち着かないと、、落ち着く潮時を逃しそう。