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頼みの綱

自分の力ではどうしようも無くなった時に、最後にすがる相手のことを「頼みの綱」と    呼ぶ。

たとえ「綱」が藁みたいにか細くて弱っちくても、何でもいいから握り締めるもんがあると安心する。

いざという時には、「綱」は人間でなくてもいいし、無神論者の癖に、神さんでも仏さんでも、イエスキリストさんでも、得手勝手なもんで人は拝み倒して握り締める。

切り札、奥の手、最後の手段、神頼み等など使えるものは使う、それが生き残りには必要だろう。格好なんて気にしてらんない。

・・・・・

あまり他人に頼らないわたしだか、なりふり構わずに人に頼って、すがったことが何度かある。

面白いもんで、普段なら綱引きの綱みたいにブットイ綱でも、「こんなもんにすがりつくなんて、プライドが許さん」となるわたし。(見栄っぱりです)

でも、絶体絶命な極限の場面に陥ると、人は視野が狭くなるのか、途端に老眼になるのか分からないけれど、藁みたいにか細い綱でも頼りがいがある綱に見えてくる。

普段、平時なら絶対に相手にしないし、頼りにもしないような人が、非日常、非常時には大きく見える。

平凡で普通の人が、まるで魔法をかけられたみたいにキラキラ見えるし、頼りがいのある人に見えてくるから不思議。

外国で事故に遭って、言葉もろくに通じない状況で手術しなくてはならない。結構ヤバい状況だ。そんな時には選り好みも出来ない。

あみだくじですがりつく相手を探そうにも、あみだがスカスカだ。そんなスカスカを感じさせないように、1本1本のあみだが黒々とブットイ線になる。

もはや綱だ。

そうやって、わたしは絶体絶命の危機的状況でも、数少ないあみだくじを引いて、すがる相手をゲットしてきた。

中国では事故って、身動きとれないわたしを尻目に、レンタル自転車を盗もうとする中国人から、自転車を取り返してくれたオーストリアの女性。

事故した大理から昆明まで、わたしの荷物を運んでくれたアメリカの男性たち。

もはや荷物は捨てて帰るしかない、と諦めていたのに、中国から日本までわたしと荷物を連れ帰ってくれた日本人の男性。

誰も、顔も名前も覚えていない。

それでも、しっかりしがみつかせてもらった彼らの手の感触も、温もりも、優しさも忘れていない。感謝!

滅多にしがみつく、頼りにするものではないから有り難みがある。神頼みだって、そんなもんかもしれない。

いつも頼ってばかりいたら、すがりつかれる神さんだって「ひとりで気張らんかい!」とソーシャルディスタンスを取るだろう。

そういえば、最近では「頼みの綱」の出番がめっきり減った気がする。年のせいか、昔のように危機的な絶体絶命な状況に陥ることが無くなった。危機の回避能力が養われてきたということだろう。

それが成長、年の功というものかも知れないけれど、ドキドキもハラハラも減った。

ときめきが無くなった。

残された危機的な絶体絶命は、死を迎える、その時だろうか。でも、その時、わたしの「頼みの綱」になるのは神さんではなく医者だろう。

どうせ最期にしがみつくのなら、しがみつき甲斐のある立派な綱にしがみつきたい。そろそろかかりつけ医を見つけよう。

そんでもってしがみついたら最後、死んでも離さないように、今から握力を鍛えるとするかな。