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noteで俳句にハマる(俳句と思考の変化)

拡散思考のわたしは、noteを書くときもだらだらと書いてしまう癖があり、どうにか起承転結、着地点を見いだしていたが、書いても書いてもモヤモヤが残ることが多かった。

エッセイを書いているnoterさんに、600文字程度で書いたらどう、とアドバイスを貰ったことがあるが、無理!と一刀両断した。

ところが、そんなだらだら思考のわたしが、今は五七五の17音の世界にハマった、いや、ハマりつつある。

俳句のイロハも知らないし、文語文法なんて意味不明だ。それでも、指を折りながら句を作っていく。とりあえず、指さえ折れたら、どうにかなるやろう。

真摯に俳句と向き合っている人が聞いたら、目くじら立てて憤慨するだろう。それでも、愉しく俳句と遊べている今が楽しい。

でも、どうしてわたしは俳句にハマっているのだろう。すでに、足首のあたりはハマっているし、そろそろ膝まで浸かりそうだ。

水害事故だと、膝まで浸水したらあっという間に流されるかもしれない危険水位だ。

それに、水位が増すと路面見えなくなって、危険物があっても気づかない。

もしかしたら、俳句という沼から抜けるのは今がラストチャンスかもしれない(苦笑)。

ただ、俳句の効能かは不明だが、とりあえず最近、ボッーと出来るようになった。

もちろん、拡散思考癖のあるわたしの脳内、いつもゴチャゴチャしていて、騒々しい。

それでも、五七五にギュッと凝縮して世界を理解するというか、考えてみようとした時、拡散ではなく収縮思考となる。開きっぱなしだった瞳孔が収縮するみたいだ。

ということは、交感神経優位から副交感神経へと、脳も心も穏やかになろうとしているのかしら。

人間の感情には、喜怒哀楽がある。もちろん他の細々とした感情もあるが、ざっくりだとこの4つくらいだろう。

特に多くの人が悩まされるのが「怒」の感情だろう。「アンガーマネジメント」みたいにわざわざマネジメント、管理しなくてはならない、厄介な感情だ。

ただ、わたしは怒りの感情は嫌いではない。この怒りの感情の奥には他の感情が隠されているので、怒らない自分は心が死んでいる、既に「死に体」な気がするからだ。

それでも、怒りの感情に振り回されるのは、面倒くさいし、疲れる。そこに、拡散思考のわたしの場合、怒りの感情が収縮するのではなく、どんどんと無限に広がっていく。

広がっていくことで怒りが薄まればいいが、逆に思考が拡散して、怒りの元の小さな種を見つけ出してしまう。

ところが、五七五。思考が凝縮され、怒りの元を見つけたとしても、大元、源泉、諸悪の根源に辿り着く。

どうもこの感覚が心地よくて、性懲りもなく今日も、拙い句を詠んでいる気がする。