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年用意

師走になると、一日が早く感じます。といっても、何をしているという訳でもなく、ただ庭の手入れをしたり、今日のランチはどこにしようと思案したり。感染が落ち着いているお陰で、日常が落ちついています。

じゃあ、今のうちから掃除をして、年越しの準備をすればいいと思うのですが、なかなかそんな気持ちにもなりません。

だって、掃除しても「頑張ってるね」の声も聞けません。これなら、父の嫌みを聞いてるうちが、幸せだったかもしれません。


ひとり居の侘しさ払い年用意

季語は「年用意」です。ひとりになっても、また、正月がやってきます。

煤払いして、障子を張り替えて、正月飾りも用意して、ついでにひとりの侘しさも払って新しい年を迎えます。そんなやってもない、妄想を詠みました。

夜なべして皿鉢を仕込む年の暮れ
松の内日ごと味滲む含め煮や

上の句を俳句の先輩が赤ペンしてくださり、下の句となりました。

松の内含め煮も日ごと味の侵み

季語は「松の内」です。

正月、門松や注連飾りを飾る期間のことで、この間は新年のあいさつが交わされます。

この松の内の間、たっすかった母の含め煮も日毎に味が滲みて、美味しくなりました、という句です。

寒い霜の季節になると、母が大きめに切含め煮った野菜の含め煮を作っていました。ものぐさのため、見映えよく切るなんてことはしない。ましてや隠し包丁なんてとんでもない。

味も薄くて、初日はたっすい含め煮でした。でも、正月の三日あたりになると、味が滲みてきてちょうどになって、鍋が空になるころには正月も終わり、学校の準備を始めたもんです。

実は、最初のわたしの句が、「霜夜ゴロリと野菜母の含め煮」と、突っ込みどころ満載、意味不明な俳句でして、それを俳句の先輩が添削してくれたものがこれです。

母の野菜ゴロリの含め煮霜夜

わたしの家では、お重箱に入ったおせち料理みたいな上品な料理ではなく、皿鉢(さわち)料理と呼ばれる、大皿にドーン!と海や山の幸をぶっこんだ料理でした。

昔は自分の家で、女連中が総出で皿鉢料理を作っていたそうです。我が家の蔵にも、絵の描かれた美しい皿鉢が何枚もありました。

でも、道楽者の曾祖父が皿や徳利を売って、遊び呆けたので、いつの間にか、価値のあるものは蔵から姿を消しました。

もし残っていたら、日曜市で高く売れたかもしれないのに、残念です。

思えば、昔は何かあったら皿鉢料理を何枚も注文して、「おきゃく」をしたもんです。

築山の見える表の間に座卓を出して、子どもだったわたしと弟は、座布団を並べて回ったもんです。

皿鉢に入っている料理は皿ごとに違うので、小皿を持って、好きな料理をゲットする旅に出掛けたもんです。

皿鉢ばかりですと料金も嵩みます。そこで、母は自慢(?)の含め煮やらフルーツポンチ、おぜんざいを作って振る舞っていました。

ただ、薄味の含め煮は人気もなく、そのため松の内は残った含め煮三昧でした(苦笑)。

とはいえ、そんな家族が出演する年末年始の思い出も、今となっては、更新されることがありません。

思い出のつまったアルバムを増やそうと思うなら、人と関わり、色んな感情を豊かに輝かせて、最高の瞬間を「カシャッ」。

もしかしたら、毎年、アルバムが増えている人は、幸せな人かもしれません。もちろん、ブラックな写真ばかりが増えて、幸せなんかじゃないと思っている人もいるでしょう。

それでも、過去の自分、今の自分と向き合うことのできるアルバムがあるのは、幸せだと思います。

よっしゃ!今日も山の工房に行って、新しい思い出、最高の瞬間を「カシャッ」です。