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大晦日のために生きているのかもしれない

やっと大晦日になった。

スーパーで買い物をする人のカゴの中身を何気なく見ていると、ああ年の瀬なんだなぁという気分に自然となってくる。

あと、
「いつもは行かないけど年末のお買い物だから一緒に行こうかな」という、普段スーパーマーケットに来慣れていない人がわりかし多いような気もする。

そんな北海道の小さな町で、9回目の年越し。

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ひとまず今は、いつもの居間で、お昼ご飯のナポリタンが胃袋で消化されつつあるのを感じている。

コーヒーを流し込み、年末年始用に焼いておいたチーズケーキを食べ、スコーンも二つ食べる。さすがに食べすぎた。



ふと視界に、脱ぎっぱなしの靴下が入ってきた。

足からぺろっと剥がされて、体温を含んだままふんわりたたまれたんだろう。そんな風な、あんまり憎めない脱ぎっぱなし感。



パソコンを見るにはすこし暗くなってきたなと思い、デスクのライトをつける。

このライトは数日前に夫が取り付けてくれた。彼は「台所がきみの居場所っぽいから」みたいなことを言いながら、本当に台所の中にわたしの仕事場を作った。



そうなのだ。

わたしから台所を引き算してしまったら、何が残るというのだろう。



錬金術は台所から生まれたらしい。日々台所に立っていると、ああそうかもしれない、と思える。

おまじないでオムレツは作れないけれど、農家さんから卵を買って、ボールに割って、かき混ぜて、フライパンにバターを溶かして、じょわぁぁっと溶いた卵を入れて、ふんわり巻いて、お皿に盛る。

そうやって手を動かしてオムレツを作りながら、買い物メモに書き足す食材を思い出したり、脳内の観たい映画リストに思いを馳せたり、ただただ無心になれたり、ずっと迷っていたことの答えみたいなものが見つかったり、さっき淹れたお茶は冷めてもおいしいなと感動したり、する。

そういう時間はお金では買えない。だから金と等しく大切にしたいと、わたしは思う。

この仕事場は、そういうわけでとても嬉しい。



15時を超えてしまった。

息子よ、そろそろお昼寝から目覚めてくれないだろうか。


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ふりかえる。

記憶は曖昧だなと思いかけて、そうじゃないか、曖昧なのは感情かと思う。

一瞬一瞬で切り取るとものすごく嫌だったこととか悲しいこととか思い出したくないくらい恥ずかしかったことがいっぱいあったはずなのに、今日そのことを思い出すと、まぁ良い経験だったななんて思えるんだから。



おや。

さっきまであった脱ぎっぱなしの靴下がなくなっている。洗濯カゴに収まったのかな。新年早々、ガシガシ洗ってやろう。



そういえば今日はだいたい吹雪いている。

車に乗ったらホワイトアウト状態だった。轍もたくさんできていた。



息子が起きた。

フルフルパワー全開。ガソリン満タン。ものすごくまぶしい笑顔だ。

お腹がすいたと言って、お昼の冷めたナポリタンを頬張っている。ピーマンとソーセージはいらないらしい。顔中オレンジ色。いいなぁ。いのちがあふれている。そんな息子を見ながらわたしは生ぬるい番茶をすする。



義父にとお弁当箱におせちを詰めていると、なぞなぞを思いついた。

最新鋭のミシンが運ばれてきました。なんと下糸だけで縫えるのです。もう針に糸を通す手間もなくなります。では問題です。このミシンを運んできたのは一体だれでしょう。



おや。

夫が履こうとしている靴下は、先ほど脱ぎっぱなしで洗濯カゴに入ったと思っていた靴下だ。



息子が退屈そうなので、外は暗いが神社に行くことにした。

初詣は年の初めに行くけれど、そういえば大晦日に神社に行ったことは一度もない。〆詣(しめもうで)とでも呼ぼうか。



神社に行くまでの雪道に足跡は一つもなかった。

足跡のない雪道を開拓していくときにはワクワクし、同時に少し緊張する。

誰かが歩いて跡をつけてくれた道は歩きやすい。踏み固められたところをなぞるように歩くだけでいいから。まっさらな雪道はいつもわたしを試してくる。どんな風に歩いてくれる?と遊びかけてくる。それがとてつもなく、自由なのに、心細いような気持ちにさせるから。


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家に帰ってから、こたつの横に息子のおうちを作った。

ダンボールをざくざく切って夫がドアを、わたしはポストをつくる。

息子のおうちには、息子の招待がなければ入れない。なんだか最近のSNSみたい。



息子が寝たあと、夕ご飯に夫がラーメンを作ってくれた。

おいしいお出汁のスープをごくごく飲み、生麺をずるずるやりながら、「来年は中華麺を打とうかな」なんて言う夫。それはものすごく楽しみ。



今年の残り時間はあと30分。

もう一度ふりかえる。



ものすごく特別なことはなかった。

それでも今年も捨てたもんじゃなかったと思える。今年最後の日だから美しく見えるんじゃなくて、本当は、毎日、どんな日も、それなりに光っているんだと思う。それに気がつくには、少し遠くに来てから見ないとわからないのかもしれない。

一日の光は豆電球くらいかもしれないけど、一年分の豆電球が集まるから、複雑に輝いて見えるんだ。きっと。




お昼に食べたナポリタンのトマトのシミみたいに、今日の出来事はからだに染み込んでいる。うれしいことも、そうじゃないことも。

「あの人はいつも笑っていて元気そうだな」

そんな風に見える人でも、しっかり昨日を引きずり、また次の今日を生きている。




ふりかえる。

というより、
毎年大晦日にだけ集まれる、365人の自分との同窓会。

みたいな気持ちになってきた。





そうして布団に潜り込み、

カウントダウンすることもなく、

1月1日を迎えた。




朝一番、妹からメールが届いた。

「今年も気の向くまま、心のままに過ごしていってね」

ありがとう。そうさせてもらいます。

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