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声ッセイ【誕生日】あの日。誕生日が母の命日になった

私の誕生日は母の命日だ。

世界がミレニアムで沸き立っていた2000年の秋の日から、自分が生まれた日がお母さんが死んじゃった日に上書きされた。

当たり前にそこにあるものがなくなった。

当時31歳だった私はそんな事を想像もしていなかった。

そして、自分をずっと責めてきた。

責めてきた。

過去形なのは、今年出会った色々な事が重なって、自分を責めなくてもいいんだよ、とあの日の私に言ってあげられたから。

1歩も動けずに閉じ込めてた気持ちを外に逃がしてあげられた気がする。

記憶にも残らない当たり前に流れる時間と、普通の毎日がどれだけありがたいものなのか。

21年前のあの日。私は、さっき電話でいつも通りの声で笑って話した母が倒れているのを見つけて嫌という程思い知らされた。


スクショをしたみたいに鮮明に覚えてるあの日の事を書こうと思う。

10月7日。

いつも通りの朝だった。

1歳7ヶ月の長男とのんびり過ごしていた。

1週間前に新米を持っていった時に携帯を実家に忘れて置いたままになっていた。そろそろ取りに行こうかな。ふと思って電話をかけた。

8時頃だったと思う。

「今日てきとーにいくわ」

「どーせ、いつも通りお昼頃でしょ」

「や、そこまでは遅くならないよ」

「パート行って来ちゃうから」

そんな他愛のない会話をして切った

当時母は、お昼から数時間パートに出ていた。午前中に間に合わなかったら夕方まで実家でのんびりして、ちょっと息子の顔見せてから帰ろう。そんなふうに思った。

秋らしい晴れの日で、真夏の空の青に少しだけ白をたらしたような色の高い空だった。私はその空色に灰色を少し混ぜたような色の組曲のカーディガンをにデニムのスカート、グレーの靴下をはいていた。長いながい1日に、何度もうつむいて下を見てたのだろう。脳裏に焼き付いている。

実家までは車で1時間くらい。

途中、自販機でデミダスコーヒーを買った。長男は小春日和の秋うらら、チャイルドシートで気持ち良さそうに寝ていた。

変な事をハッキリ覚えてるものだ。何かの予感が無意識の私にあったのか。それとも人間の脳はもしかしたら、衝撃を受けるとドラレコみたいに遡って記録するようにできてるのかもしれない。

あの日以来、缶コーヒーを飲まなくなった。

組曲のカーディガンもデニムのスカートも捨ててしまった。

実家について家に入った時。

言葉に言い表せない違和感を感じた。

胸騒ぎがした。何かが違う、そう思って長男を座らせしまじろうのビデオをつけた。

私はそのままトイレに行った。いまでも何故そうしたか分からない。


そこで母は倒れていた。

息はあった。いつ倒れたんだろう。どうして電話をしてすぐに家を出なかったんだろう。どうして缶コーヒーなんか買ってたんだろう。さっき、しゃべったのに。わたしのせいだ。

耳がボワーっと遠くなるような、地面がグニャリと歪むような、よく分からない感覚のまま救急車を呼んだ。どこかひどく冷静な自分もいた。

脳幹出血だった。血圧が異様に高く母の血管は耐えきれなかったのだろう。

大きな病院で処置をしないと、ということになり車で1時間と少しの大学病院に行くことになった。

救急車の中で長男が少しグズグズし始めた。まだ乳離れしていない長男をブランケットでおおって母乳を飲ませていた。

体温が高い1歳児とペットリくっついて汗ばむくらい暑いのに手のひらだけは冷たくて何度も手をこすり合わせていた。

慌ただしく入院の手続きをしてあちこちに連絡をした。長男と手をつなぎながら、ふと足もとを見たら、ツルツルの病院の床とグレーの靴下とヘンテコな柄のスリッパをはいたままの足が見えた。

処置をしたけど、意識が戻ることはありません。そう言われ家に戻った。

それから、先生の見立て通り、意識が戻ることなく、1週間で息を引き取った。

母にとったらあと数時間で母になった日、私にとったら誕生日だった。


電話の時はいつもと同じ母だった。

どうしてもっと早く行かなかったんだろう。

そればかりが頭から離れなかった。

母が亡くなる2ヶ月前の8月。父ともめて私の家に家出して来た事があった。一緒に実家の青森に帰ろう、私はそう言ったけど母は5日程で家に戻ってしまった。「パートもいつまでも休めないし、帰るよ」

あの時青森に一緒に行ってたら、、父の事でストレスを溜めていたのはわかっていた。あの家から連れ出してあげられていたら。

たくさんの【たられば】に押しつぶされそうだった。


私はその頃、長男に「かーちゃん」と呼ばせていた。

入院から葬儀までたくさんの人が私を「みかちゃん」と呼んで、それを聞いていた長男がいつの間にか「みかちゃん」と私を呼ぶようになった(笑)

そう言えば母は「ばーちゃんなんて呼ばせないで名前で呼んでもらう」って言ってたっけ。

居なくなってもう呼んでもらえないから代わりに私を名前で呼ばせてるのかな?そう思ったりした。笑

いつもそばにいた小さい人のお陰で私は笑って毎日を過ごすことができた。

自分を責める気持ちは消えないけど、この穏やかな笑顔と光と優しさにあふれた時間を大事にしなければいけないと、思うようになった。

1日が終わって眠ったら、もう目が覚めないかもしれない。それでも後悔の少ない毎日を送りたい。

時間が経つにつれてそう思うようになった。

1週間ぶりに、今日実家行こう。
母が倒れたあの日そう思った。

母は普段は昼間は1人で家にいるので、私が行かなかったら夜まで誰にも見つけてもらえなかっただろう。

間に合わなかったけど、冷たい床ではなく、お布団の上で眠りにつけた。

よかった。

そんなふうにも思えるようになった。


21年経った2021年

色々な出会いの中で自分を責める気持ちをやっと手放すことができた気がする。

何度も再生したビデオテープのような記憶を言葉にしながら、こうしてあの日を振り返って気持ちを外に放ってエッセイを書くことができた。

母が体を張って教えてくれた。

普通の毎日を大切に生きること。

そしてあの日。人生最悪の気持ちで誕生日をむかえた私へ。ちがうよ。大丈夫だよ。あなたのせいじゃないよ。

そう言って抱きしめてあげよう。







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