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【日記】大阪・北御堂「笹の墓標展示館 巡回展」(22.09.25)

 大阪・本町、西本願寺津村別院(北御堂)。満を持しての「笹の墓標展示館 巡回展」、最終日。

 折しも会場の片隅でドキュメンタリー映画「笹の墓標」(全5章、延べ9時間の一部)も上映してくれていて、開場時間の10時から17時までの終日を過ごす。舞鶴の浮島丸にならんである意味、原点のような場所ではないか。朱鞠内をずっと訪ねたいと思っていた。わたしもまた笹におおわれた薮を掘り起こしているのだと思っていた。

 午前中のほとんどを費やしたフィルム上で、遺骨の発掘作業前の朝鮮半島の土を起す儀式のなかで、祈り手が「罪深い手が触れましたら、どうぞ応えて下さい」と地中の死者に語りかける。笹の根茎がはびこった地面の表層をスコップで剥ぎ取る。祈りは労働である。硬い地層を削り、岩を砕き、根を断つための肉のふるえが、そのまま絶え間ない思念となる。やがて色の異なる地面の断層が現れ、スコップは放擲され、竹べらや刷毛で土が払い落されていく。紛うことなき歴史の実時間に於いて殺され、その言われなき死によって永遠に日常を断ち切られた者の骨盤が、大腿骨が、腰椎が、頭蓋骨の一部がまるで深海から引き上げられた魚のように出現する。そのとき、ひとはなにを感じるだろうか。なにを思うだろうか。加害の民族によって、被害の民族によって。

 歴史の思想とは、そうであるべきではないか。泥だらけの雨のなかで、喉が涸れる炎天下で、手足が痺れ、疲労が脳髄を弛緩させ、立ち眩むその瞬間に、わたしたちは「連累」というものに対峙させられる。それは生者であるはずのわたしたちの頭蓋骨に絡まる無数の細根である。死者はたしかにたぐりよせる。地中の死者の手根骨をひっぱれば、生者であるわたしたちの胸骨がふるえる。わたしたちは、そのような連続性のなかに在る。地面を掘れば分かる。

 「連累」とは以下のような状況を指す。
 わたしは直接に土地を収奪しなかったかもしれないが、その盗まれた土地の上に住む。
 わたしたちは虐殺を実際に行わなかったかもしれないが、虐殺の記憶を抹殺するプロセスに関与する。
 わたしは「他者」を具体的に迫害しなかったかもしれないが、正当な対応がなされていない過去の迫害によって受益した社会に生きている。


 テッサ・モーリス=スズキ『批判的想像力のために』



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