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「お墓」を遡行する

 墓に、参る。花を立て、線香に火を点け、手をあわせて瞑目する。そのとき、意識はどこへ向けられているか。地表に立った石塔(墓石)ではないか。だから墓石を磨いたり、水をかけたりもする。地下の納骨スペースに収納された遺骨ではなく、目の前の墓石がまるで故人であるかのようにわたしたちは振る舞い、ときに墓石に話しかけたりするわけだ。そして「お墓」といえば、わたしたちはその墓石を想起する。

 ところがその墓石(石塔)の下に、かつて死者たちは眠っていなかった。

 「墓」がカロウトとよばれる地下の納骨スペースを持つようになったのは、ごく最近のことだ。いや、そもそも「墓」が、わたしたちがふつうに思い浮かべるような墓石を持つスタイルになったのも、じつはそれほど長い歴史を有しているわけではない。

 鎌倉時代に作成された「六道絵」のひとつ「餓鬼草子」には、平安~鎌倉時代にかけての墓域の様子が描かれている。火葬した遺骨を埋葬して石を積み上げた「集石墓」が二基、土葬部分を土盛りした「土坑墓」が三基。そのうち石塔である五輪塔が置かれているのは一基だけで、残りは卒塔婆や、ささやかな樹木が植えられているにすぎない。さらにその間には蓋の開いた木棺の遺骸が一体、野ざらしの遺骸が三体横たわり、餓鬼や獣たちに食い散らかされている。

餓鬼草子

 京都の東山や化野の異界には、このような光景がひろがっていたのだろう。出典は失念したが、京都の公家か誰かがじぶんの伯父の墓を探したが、すでに卒塔婆も朽ちて場所が分からなくなっていたという日記のくだりを読んだ記憶がある。「墓」はやがて不明になるもの、であった。

 柳田民俗学によって定着した日本社会の「霊肉分離の観念」(「一定の年月を過ぎると、祖霊は個性を棄てて融合して一体になる」先祖の話)の説明として、村はずれの遺体の埋葬地点(埋め墓)と集落内に設けられる石塔(参り墓)を有する「両墓制」がその典型例として位置づけられてきたが、「「お墓」の誕生 死者祭祀の民俗誌」(岩波新書)で岩田重則はそれに疑義を呈している。

 地下のカロウトに一族縁者の遺骨が並べ置かれる現代のスタイルになる以前の「墓」は、火葬であれ土葬であれ、石塔(墓石)の下に遺骨はなかった。従来でいう「両墓制」のような離れた場所であれ、墓石の隣接地であれ、遺体や遺骨の埋葬地点とは異なる地点に、しかも時間的な隔たりの後に石塔は置かれた。埋葬の後に、何らかの事情で石塔が置かれないままの場合もあった。

 柳田民俗学がいう「固有信仰」としての先祖祭祀の象徴である石塔(墓石)が日本の墓制の歴史に於いて現れるのは近世以降、 2004年の「大和における中・近世墓地の調査」(国立歴史民俗博物館)などによれば、現代の「お墓」につながる「石塔一基における複数死者祭祀」の角柱型石塔が出てくるのが1800年頃からであるから、わずか200年程度の歴史しか持たない。「“固有”と呼べるほどの歴史的蓄積がないことはいうまでもない」と岩田は前掲書で記している。

 岩田はさらに出棺から埋葬地への葬列、墓掘り、埋葬後に土をかけた上に枕石や草刈り鎌を置き、割り竹や玉垣でそれらを囲うような設営がすべて集落内で選ばれた「葬式組」によって行われ、そこに僧侶の関与が一切ないことに着目する。

 キリシタンの取り締まりのために寺檀制度として「宗門人別帳」などの寺単位の登録簿が整備されていくのは江戸時代、前述した石塔(墓石)の出現や変遷の歴史と重なる。「いわば、この遺体埋葬地点の世界は非仏教的存在であった。「葬式仏教」の言葉に代表されるように、もともとは外来文化である仏教が葬送儀礼を通して民間へ浸透していることは確実であるが、その「葬式仏教」によって浸潤されていないのが、この遺体埋葬地点の世界であった」(「「お墓」の誕生 死者祭祀の民俗誌」) 

 柳田民俗学は石塔(墓石)に日本社会固有の「霊肉分離の観念」を見たわけだが、岩田は石塔以前、「「葬式仏教」によって浸潤されていない」遺体埋葬地点の世界に仏教以前からの死霊祭祀の名残りを見ている。

奈良市今市町 帯解寺ちかくの共同墓地の一画にある「子墓」

 1936年の「岡山県下妊娠出産育児に関する民俗資料」(桂又三郎)は、出産前あるいは出産直後に死んだ嬰児の埋葬地に床下・軒下・土間などの家屋内が多いことを記録している。「死産は男の子の場合は家の入口の内側へ、又女の子の時は入口の外側へ埋めていた。又家の軒下へ埋めることもあった」(小田郡新山村)

 これはたとえば縄文時代の住居跡の入口付近にしばしば「甕の形をした深鉢形の土器」=埋甕が見つかることと酷似している。「それによると当時の人たちは,死んで生まれたり,あるいは生後すぐに死んでしまった赤ん坊を特別に憐れんで,住居に住むその母親がいつもまたいで通る場所に,逆さにした甕に入れて埋葬した.そうすればその甕の上を母親がまたぐときに,死んで埋葬された子の魂が股間から体内に入って,また妊娠し生まれてくることができると信じられていたからだという.母の胎内に帰りまた生まれてほしいという願いを示す一種の呪術的行為と考えられる」(渡辺誠「再生の祈り―祭りと装飾」)。 

 アイヌの人々もかつて、同じような理由から「幼児の遺体は大人とは別に家の入口のところに埋められ,人がよく踏むようにして,早く次の子になって再生することを願って葬られ」た(梅原猛「縄文土偶の謎」)。

 またムソバという共同墓地への埋葬が行われていたという記述もある。ムソバというのは「他国の変死人及び犬猫等総て其場限りにて後を弔わないものを葬る場所」である。

 これらは「江戸に流入してきた庶民の埋葬実態が示されている」という東京・新宿区「黄檗宗圓應寺跡」にて発掘された非檀家の「墓標なき墓地」の光景と重なる。それは「狭隘な空間に重複して埋葬され、副葬品はほとんどなく「早桶」に入れられ」、「木製の卒塔婆はあるが、石塔は建立されていない。いわゆる「投げ込み」同様」の墓域である。出産前後の嬰児はそのような場所に、寺の過去帳や人別帳に記載されることもなく葬られた。これらはまた前述した「餓鬼草子」の中世の墓域の光景にも似ていないだろうか。

 岩田は「こうした子供の墓の現実を見たとき、子供の墓には、石塔が建立されるようになる前の、日本の墓制が残存していたと考えることができそうである」と記している。

東近江・五箇荘の埋め墓

 僧侶の関与が一切ない埋葬地点の世界は仏教以前の中世、場合によっては遠く縄文時代まで遡るかも知れないこの国の人々の死霊祭祀の残滓を宿していた。一方でわたしたちが一般的に「お墓」であると認識している石塔(墓石)の世界は、「もちろん中世には存在せず、近世に発生した石塔からの発展形態であった。近世社会からの連続性の上に成立してはいるものの、近現代社会で形成されてきているものであり、それは、現在進行形である。

 このような「お墓」の形成をめぐる歴史的現実を見たとき、「お墓」とは前近代的残滓でもなく、はたまた、伝統的といえるほどの生活習慣でもなかったことは明らかであろう」。

 そして、こうした現象の背景には、近世社会の政治支配の影響、近世幕藩体制下における「葬式仏教」の浸透による「〇〇〇〇居士」「〇〇〇〇大姉」、あるいは「〇〇家先祖代々之墓」「〇〇家之墓」と刻まれた石塔の普及があった。いわば、一般的常識における現代の「お墓」とは、「葬式仏教」の浸透および近世の政治支配の残影が、生活世界に巣食っている現象にほかならないともいえる

岩田重則『「お墓」の誕生 死者祭祀の民俗誌』(岩波新書)

 考えてみれば天皇制神話、国家神道、靖国神社、天皇陵、わたしたちは「“固有”と呼べるほどの歴史的蓄積がない」古びた衣装にどれだけ惑わされていることだろう。

 わたしたちが一般的に思っている古い慣習やしきたり、文化、歴史のなかには、じつはそうでないものが多く混じっているのかも知れない。「お墓」同様に、それらは案外とあたらしいもので、現在進行形である。古そうに見えるものは、ときに「日本固有の歴史的蓄積」の衣装をまとい偽証する。歴史を偽証するものは政治的なたくらみを持っている。

 わずか二~三百年の「お墓」(石塔)の歴史をばらしていけば、そこにはキリシタン禁圧に端を発して整備された権力者による民衆の支配体制が透いて見えてくる。戸籍や檀家制度、付随する「葬式仏教」に寄生してきた坊主たちなどがそれだろう。それらを無自覚に、日本人固有の歴史的蓄積を有する古くからの慣習として受け入れているわたしたちがいる。

 全国で「〇〇家先祖代々之墓」の墓が維持できなくなり、墓仕舞いが流行り、葬式や埋葬が多様化しつつある現在において、「お墓」の在り方とともに、歴史を偽称するものたちについて再考することは良い機会かも知れない。

積み上げられた無縁墓


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