昭和7年 亀の瀬の地すべり復旧工事を追体験する(前編)【My Dark Tourism 奈良】
JR奈良駅から大阪の天王寺へ向かう関西本線に乗ると途中、低い山並みが迫り大和川の風景が渓谷の景勝地のようになったあたりで「亀の瀬」の地名を見かけた人も多いのではないだろうか。奈良盆地を子宮の揺籃に喩えて、この亀の瀬を産道だと表現する人もいる。
じっさい古代において、奈良盆地は巨大な“奈良湖”であった。まだ海の底だった大阪平野の海面が生駒・金剛山系を北から迂回するように「奈良盆地」とつながっていた。平城山丘陵の堆積物が「奈良盆地」の北側をふさいで海と切り離されたのが約1万年前頃。その後、亀の瀬付近で断層による陥没ができて“奈良湖”の水が大阪平野へ向かって排出された、その筋が現在の大和川ということになる。
佐保川、竜田川、初瀬川、寺川、飛鳥川、曽我川、葛城川、奈良盆地のすべての川は合流して大和川となり「産道」である西の亀の瀬を目指す。大和川と淀川によって運ばれた土砂によって、現在の大阪平野が形成されていった。
かつて「国道1号」とも言われる葛城市から羽曳野市へ至る竹ノ内街道、そして生駒から東大阪へ抜ける暗(くらがり)峠をあるいたことがある。峠とは国見であり、また未知の世界への怖れを押し隠す場所でもあったろうか。万葉集はそうした峠を懼坂(かしこのさか)と詠んでいる。飛鳥に都があった時代、亀の瀬は難波へつづく竜田古道の難所であった。すでに『日本書紀』の神武天皇即位前期には「而るに其の路狭く嶮しくして、人並み行くことを得ず」とある。河内に上陸した神武の東征軍は、先住民の長髄彦(ナガスネヒコ)の抵抗と亀の瀬の地勢に阻まれて紀伊国熊野へと迂回したのだった。
戦国の終わり頃に、片桐且元がみずからの領地であった大和小泉から大阪城内へ米を運ぶために亀の瀬を掘って船を通したのが、魚梁船(やなぶね)の始まりだという。以来、川船の支配権は明治維新まで、竜田本宮の社人であった安村氏が継いだ。亀の瀬より下流の大坂側が剣先船(けんさきぶね)のピストン運行で、亀の瀬のあたりで荷馬に積み替えるか、剣先船より小型の魚梁船に乗せて奈良盆地の各所へ油粕や干し鰯などの肥料や米・雑穀の他、材木や釘、畳、箪笥、瀬戸物のほか、石塔まであらゆる物資が運ばれた。
大和川沿いにいまも残る亀の瀬龍王社は当時の船仲間が運航の安全を祈った祠でもあり、「大坂剣先船問屋中」と刻まれた境内の石燈籠が往時の賑わいを伝えている。
明治になって安村氏は、亀の瀬の水運の障害となっている岩盤を破砕して「下流の船を入れてから堰を閉じて水位を高くし、船を上流へ引き上げる」水平式運河を総工費1,400円で明治16年に完成させたが、やがて明治25年に当時の大阪鉄道が開通したために荷のことごとくを汽車に奪われ、300年に及ぶ魚梁船の歴史は終焉を迎えた。当時の大和川べりには、捨てられた魚梁船が漂っていたという(松本俊吉「奈良歴史案内」1974年)。
そんな歴史を持つ亀の瀬は、じつは花崗岩の基岩の上に数百年前の火山活動による火山岩や堆積岩が何層かに積み重なり、地殻変動等によって大和川方向へ傾斜している有数の地すべり地帯でもあった。大和川も、現在の国道25号線も、この滑りやすい溶岩の上に乗っかっているのである。その亀の瀬で1932(昭和7)年、大規模な地すべりが発生した。
予兆は前年の夏頃から、溜池の水が涸れたり、田畑に亀裂が走る現象で始まった。そして11月27日、前述した龍王神社の背後にあたる峠集落に於いてさいしょの地すべりが発生した。当時の大阪朝日新聞は「大和川河畔に 突如、大地割れ 家は傾き戸はしまらず」という見出しの記事を載せている(昭和7年1月8日付)。
その状況を『奈良県警察史』は次のように記している。少々長いが、その後の経緯も含めて引用する。
『奈良県気象災害史』によれば被害状況は死者5名、負傷者15名、行方不明者2名。家屋は全壊22戸、半壊81戸、流失42戸、浸水6,185戸となっている。延面積32ヘクタール(東京ドーム7個分相当)に及ぶ大規模な変動があり、大和川の河床が5メートルも隆起して水流を塞いだために上流の奈良側に浸水被害を起し、また明治25年につくられたトンネルと、複線工事のために大正時代に新設された二本の大阪鉄道(現JR関西本線)の煉瓦式トンネルが押しつぶされたために、長期間交通が遮断された。
大阪鉄道は圧壊したトンネル西口に近い大阪側、現在の「亀の瀬地すべり資料室」の西方100メートルほどのところに臨時の「かめのせ西口駅」を設け、トンネル東側に近い奈良側は現在の三郷町水道部の建物よりやや東あたりに「かめのせ東口駅」を設け、その間は地すべりが進行しつつある峠集落を越えての移動となった。徒歩で20~30分の道のりだろうか。現在の峠八幡神社あたりと思われるが、集落では「地すべりの被害や復旧の様子を写した絵はがき(「地辷見学記念絵葉書」)、ぶどう、パン、お酒やつまみ等を扱う、ちょっとしたおみやげ物屋兼休憩所」を営む家もあった(「亀の瀬地すべりの記憶」亀井孝雄(談)砂防と治水127/1999年)。
3月中旬になって、この地すべりの対策工事は内務省の直轄となり、費用は国が負担することとなった。当初は上り線のみの単線運転の方向も検討されていた亀の瀬トンネルも2月に入って崩壊の一途をたどり、6月に新線を大和川の対岸(南)に迂回させることが決定された。後に戦後の地すべり対策に関わった奥村組の氏本幸伸氏は、当時の記録を次のように振り返っている。
現場は大和川をはさんで北側と南側のふたつのエリアに分かれて行われた。「第一工場は明神山麓河道移設並に河床隆起前取工事を、第二工場は峠法切工事、稲葉山前面河床隆起削取及河道移設工事を各分担」し、王寺町の藤井地区に「大和川災害復旧事務所を置きて之を統括した」。(「亀の瀬問題」1.大和川災害応急工事概況 内務省大阪土木出張所技師 山下輝夫 / 「土木工学」2(1) 1933年)
元奈良新聞社の川瀬俊治氏は『奈良・在日朝鮮人史』(1985年)のなかで、この「戦前最大の土木工事」について以下のように記している。
後編では半年間に及んだ工事の様子を、主に前出の内務省大阪土木出張所技師・山下輝夫氏のレポートと当時の新聞記事によって辿る。
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