昭和7年 亀の瀬の地すべり復旧工事を追体験する(後編)【My Dark Tourism 奈良】
半年間に及んだ工事の様子を、主に前出の内務省大阪土木出張所技師・山下輝夫氏のレポートと当時の新聞記事によって、いましばらく追ってみよう。
内務省直轄による工事が本格化するのは5月からだが、王寺町の記録では2月16日に大和川底の隆起箇所の土砂除去工事が開始された、とある。地すべりは進行中で、亀ノ瀬トンネルが徐々に崩壊していくのと同時並行で、河底の閉塞による浸水被害を防ぐために早々に応急工事が行われていたのだろう。
4月19日付朝日奈良版には「百余名の鮮人 復讐にと殺到 新参者小者なりと 血の雨を降らさんとする」なる見出しが現れる。大和川災害復旧工事に於いて、700名が加盟した「内鮮人共和労働組合」を通さずに「鮮人人夫8名を使用した」朝鮮人の親方・金水■(34)と組合側が抗争が起きたという記事である。すでに現場では多くの朝鮮人労働者が集められていたことが伺える。
山下輝夫氏のレポートによれば、5月1日から現場は昼夜の作業に移ったという。労働者を二組に分けて一昼夜交代制とし、午前6時始業で翌朝5時終業というのは仮眠時間などはあったのだろうか。翌日一昼夜休養させるパターンで「五ケ月の昼夜作業を継続し何等支障もないようである」と記している。そして労働者については「附近農村労働者千数百名、朝鮮人2500名、凡4000名を交代使用し、一日千五六百人を使用しつつある。今日迄使用労働者延人員は170,000余人に達し」と記している。
5月11日朝、大和川南側の第一工場で10名が生き埋めとなる事故が発生した。「生命に疑問符」と書かれた2名についての続報は見つからなかった。
「南平」は現在の峠八幡神社から大和川方向へ100メートルほど下った斜面のあたり。その法面の土砂の削り取り作業に従事していた朝鮮人の青年が休憩をしていたところ、20間(約36メートル)下の川底から爆破で飛んできた拳大の石が頭に当って怪我をしたというものだ。この爆破作業で飛来した岩で怪我をしたという記事は、このあと幾度も登場する。安全確保もままならぬ、杜撰で乱暴な現場だったのだろう。そして前述の川瀬氏が書いているように、危険に晒されるのは圧倒的に朝鮮人労働者が多い。
その二日後の5月28日には「峠の地辷り 依然続く 毎日十センチ位移動」の見出しで「現在作業に従事している人夫はじつに750名の多数に達し、作業中の宋梁■(28)は前頭部打撲傷を受け、谷上国松(33)は右指裂傷を負った」との記事があるが、事故の詳細は触れられていない。
5月30日には「地辷り再発 区民恐慌 その反面に工夫等騒ぐ」の見出しで、「鮮人500名が昼食時を利用して賃金値上・就業時間の短縮・医師の常設等の要求を事務所に提案。31日午前2時頃、24~5歳の鮮人土工が要求を刷ったビラを撒いて龍田署員に検挙された」との記事がある。
『奈良県警察史』によれば、この頃「辷りは継続的でとくに梅雨期が最も危険をはらみ大和川の水位が高まり、あと四尺(1.32メートル)で洪水禍のおそれが迫る状態となった。そしてついに6月25日藤井地区では20戸が床上浸水し避難した」とある。そして7月3日付けの朝日奈良版には「大和川の湖水化し 水浸りの藤井区 一時交通全く杜絶の窮状」の見出しが載り、同日付の奈良新聞は復旧工事が「一日午後3時から工事を中止した」と伝えている。
その十日後の7月11日、はじめての死者の記事が載る。「今回の復旧工事で初の犠牲者」とあるが、5月に生き埋めになって発見されなかった朝鮮人労働者は、その後どうなったのだろうか。
東西の臨時駅から徒歩で移動中の乗客のいた峠集落の休憩所にまで、爆破作業で岩盤の破片(六百匁、2.25キロ)が河底から飛来し、トタン屋根を突き破ったというのである。この後、作業現場での事故の記事が頻出する。
7月16日、大和川の「河底爆破作業中の石破片」で石工西村金造(30)が「頭部に治療7日間の傷を受けた」。翌17日、「鮮人土工全徳賢(33)」が明神山の切り崩し作業中に山腹から転落して右■部及び頭部に治療20日間の負傷をした。25日、岩石爆破作業に従事中していた「鮮人土工金錫■(28)」が休憩中、現場から20メートルを隔てて飛来した破片のため腹部に重傷を負った。28日、明神山の削り作業に従事中の「朝鮮生れ吉村平吉事李介(27)」が落ちてきた石のために肺部を強打し治療二週間を要する負傷をした。
8月に入ると朝日奈良版(8月6日付)は「反目する朝鮮人工夫 王子町で対峙の形勢」という見出しで、王寺側と三郷側のそれぞれの飯場の朝鮮人工夫数百名づつが4日夜、大和川にかかる神前橋をはさんでにらみ合い、一触即発のところを龍田署が署員総出で収めたという記事を伝えている。5月30日の環境改善要求から一向に減らない事故などで、朝鮮人労働者たちのやり場のない不満は第一工場、第二工場に分けられたお互いに向けられたのだろうか。
8月7日、峠集落下の切取り作業に従事していた「鮮人土工催龍須」がつるはしを誤ってみずからの足に当て「治療7日間の負傷」をし、また対岸の明神山で切取り作業中の石工山口芳治が「転落する土砂のために顔部其他に治療5日間の負傷」をした。9日には15歳の朝鮮人の少年工が一時生き埋めになっている。「9日午後11時頃、第二工場で土砂の切取り作業に従事していた鮮人土工金(15)は上方から転落してきた十坪余の土砂のために生埋めとなり全身に治療十日を要する負傷をした」
そして21日、ついに死亡事故が発生する。
前述した当時の内務省大阪土木出張所技師・山下輝夫氏のレポートには、「掘削機は初めスチームショベルを使用の見込にて二台を用意したが、作業地域の狭少なる事等の為めに之を廃して人力に依る事とし」という記述がある。また「工事施工に当り最も難渋を極めたるは第一工場担当の河道移設工事にして、日々隆起する河床を削り取りて河水を通じつつ河道を左岸に移設するのであるから、昼夜掘っても掘っても限りなく、従業員の倦怠を恐れたのであるが、一同能く勉励し限りなき大地の力に抗し能くも耐え忍んだ事と思う」とも記し、地すべり等の地殻変動が進行するなかでの作業が如何に厳しいものであったかを物語っている。
以下の奈良県立図書情報館のサイトでは当時の被害状況、工事作業状況の貴重な写真が見れるが、そこに写っている労働者たちは、山下氏が言われるようにツルハシ・スコップなどの手作業である。
年の瀬の12月31日、鉄道の迂回ルートが開通し、翌日の1933(昭和8)年1月1日から単線による運行が再開された。伊勢神宮の初詣に間に合わせたと指摘する向きもある。
わたしが今回確認したのは1932(昭和7)年4月から8月にかけての新聞紙面なので、9月以降も作業現場での事故はあっただろうと思われる。大和川の増水が引き、一帯の水没の不安が解消されたのは1933(昭和8)年10月であり(『奈良県警察史』)、大和川の災害復旧工事自体は1934(昭和9)年3月末まで続き、鉄道の複線運行は1935(昭和10)年12月まで再開できなかった(大和川河川事務所HP)。
亀の瀬の一帯はその後、戦後も引き続き調査を含む対策工事が進められ、地すべりを抑止するための直径6.5メートル最深96メートルの杭(深礎工)170基、鉄幹杭工560本、土中の水分を排出するための地下水排除工(トンネル)を7本(集水ボーリング約3,900本、総延長147km)、集水井工(井戸)54基などが設置されて、2011(平成23)年に主な対策工事を完成させ、現在は地すべり変動は沈静化している。
国土交通省近畿地方整備局の大和川河川事務所のサイトでは亀の瀬の地すべりに関する歴史や対策工事などが学べるほか、現地での見学会も常時開催されている。ボランティアガイドの方が資料室のパネル展示を説明、附近の排水トンネルや集水用の井戸などを案内してくれるが、圧巻は最後の排水トンネルを掘り進めている最中に偶然、発見された旧大阪鉄道の煉瓦トンネルである。昭和7年の地すべりで完全に圧壊したと思われていた明治25年につくられた最初のトンネルと、複線化のために大正期につくられたトンネルのそれぞれ一部が発見されたが、前者のトンネルの方が保存され、当時のままの姿をいまに伝えている。
思えば、地すべりの起きた1932(昭和7)年というのは大変な時代だ。
県立図書館でマイクロフィルムを回しながら当時の新聞記事を拾い集めながら、女郎と心中とかカルモチン自殺とか無銭飲食で親子丼二杯をぺろりなぞといった記事に混じって、爆弾三勇士に憧れてとか、共産党一味の総検挙とか、ルンペン・レプラは充分取締れとかいった記事が目の端を通りすぎていく。そのうちに奈良の歩兵第38聯隊が上海から帰還して演説会などが始まる。戦う前に停戦になってしまったのが残念です、などと聴衆の前で将校が喋っている。
1932(昭和7)年は前年に満州事変があり、2月に爆弾三勇士が爆死し、3月にはもう傀儡・溥儀を立てた「満州国」が建国されている。4月には尹奉吉が上海の天長節祝賀式典に爆弾を投げつける。5月に五・一五事件が起き、チャップリンが来日し、6月には特別高等警察部(特高)が設置される。7月のドイツの総選挙でナチスが第1党となる。10月には大日本国防婦人会が結成される。そんな時代なのだ。
わたしの住む奈良の大和郡山では、紡績工場で感電死した朝鮮人職工の徐錫縦(ソ・ソクチョン)の遺体が紛糾する補償問題のために腐臭を放ち、佐保川の工事に従事していた朝鮮人労働者もまたその紡績工場のグランドに集まって賃金未払いの訴えを起こして騒いでいた。そんな時代に亀の瀬の地すべりの復旧工事に集められた数百人もの朝鮮人労働者が土砂に生き埋めになったり、トロッコの下敷きになって死んだりしていた。
そしてわたしたちの多くは、そのような歴史をすっかり忘れている。
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