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【日記】大阪・上本町へ『「人類館事件」を知っていますか? 博覧会と差別』展を見てきた


大阪・上本町の大阪国際交流センター

 休日、大阪・上本町の大阪国際交流センターへ、企画展示『「人類館事件」を知っていますか? 博覧会と差別』を見に行ってきた。

 「人類館事件」については以前に関連書を買ったこともあり、すでにある程度の知識はあったが、いまはなきリバティおおさか(大阪人権博物館)が今回、主催ということも興味があったし、併せて『「人類館事件」は、本当に“事件”だったのか?』と題した金城カナグスク馨氏の記念講演を聞いてみたかった。

 金城氏はもう6年も前になるが、天満の国労大阪会館で開催された海南島近現代史研究会の「第21回定例研究会」のゲストとして「琉球処分は続いている」というお話を聞いたことがある。長年、大正区で関西沖縄文庫を主催してきた氏が、少年時代を過ごした尼崎で沖縄人、在日朝鮮人、被差別部落の集落がそれぞれ隣り合って暮らしていたという話は、とても興味深かったのを覚えている。

 氏はまた沖縄人として長年、「人類館事件」の調査・活動にも関わってきた。その定例研究会の会場でわたしは、金城さんたちが出版した『人類館 封印された扉』(演劇「人類館」上演を実現させたい会 アットワークス 2005年/2200円)を求めたのだった。


大阪国際交流センター 1階ギャラリー

 1階ギャラリーでのパネル展示はあらためての復習という内容だった。撮影は禁止だったのでわたしは手元のスマホに「琉球新報 1903.4.7同胞に対する侮辱 1903.4.11人類館を中止せしめよ / 1929朝鮮博覧会 / 1938国民精神総動員国防大博覧会」などとメモした。

 1903年(明治36年)、「大阪・天王寺で開かれた第5回内国勧業博覧会の「学術人類館」において、アイヌ・台湾高砂族(生蕃)・沖縄県(琉球人)・朝鮮(大韓帝国)・支那(清国)・インド・ジャワ・バルガリー(ベンガル)・トルコ・アフリカなど」のじっさいの生身の人々を「展示した」いわゆる「人類館事件」は、いまもそれほどは知られていないのかも知れない。

 しかし金城さんに言わせると、そもそも当時もそれは「事件」ですらならなかったと言うのだ。琉球新報による抗議は展示そのものを問題視したものではなく、「日本に同化しようと努力している沖縄県人をアイヌや台湾の原住民などと同列にするなどもっての外」といった主張であった。つまり被差別者による、内なる差別の再生産である。

 じっさいに「展示」されていた沖縄の少女は帰りたくないと言いながら渋々と沖縄へもどったそうだ。要するに沖縄としても、抗議はしたが「事件」ではなかった。人類館の「展示」はそのまま続けられ、日本側としても「事件」として認識はされなかった。そのこと自体が、真の事件であった。

「人類館事件は“未解決事件”」という野村浩也(広島修道大学助教授・当時)の言葉は、関東大震災時の朝鮮人虐殺を長年調べていた西崎雅夫氏の「百年前のことをなんでいまだにやっているかというと、百年前に終わっていないからですよ」という言葉とリンクする。日本人にとって人類館事件は、始まり、いまも続いている(終わっていない)。一方で加害者としての沖縄人がいて、それは沖縄人自身に残された課題である。

 金城さんは「多文化共生」という言葉にも異を唱える。沖縄の言葉で「ぬーが ぬーやら ぬーんわからん」は「何が何だか分からない」だが、その対極に多文化共生という「理解」があり、欧米列強の「帝国の視点」を学ぼうとしていた坪井正五郎や西田正俊らが提唱した人類館展示があった。

「理解」とは、なんだろうか。「わたしの名前は金城馨で、キンジョウとかカネシロとか読まれますけれど、それは日本人向きの読みであって、ほんとはカナグスクなんです。つまり、キンジョウという日本人向けの読みに変換することによって「理解」したことにしてしまう」 じぶんの名前を例にして金城さんはそう説明した。「「理解」によって違いが否定されてしまう」と。

 関西沖縄文庫には「沖縄を理解したい」と多くの人がやって来る。その中には「理解しようとしているから、自分は差別していない」と思い込んでいる人が多い。しかし、「理解」は差別につながる。人類館も、人々に「理解」させようとしたもの。マジョリティ(多数派)は、自分に都合のいい部分だけを理解しようとする。マイノリティ(少数派)に対し、「分かりやすく説明しろ」と押し付け、マイノリティの主体性を壊していく。多くの日本人が、そうした「人類館的まなざし」に気付いていない

神戸新聞 2005年8月29日「人類館事件とは? 「理解」が生む差別」


 そうして金城さんは「異和共生」という言葉をつくった。マジョリティが望む「理解」は常に危険を帯びている。だから、「分からない」ことを「分からない」こととして受けとめる。壁があってもいい。壁と壁のすきまから、二元論でない「出会いなおし」がきっと生れてくる。こうした金城さんの話は、わたしにとってまさに目から鱗であった。


3階の記念講演は大盛況で、主催者側の予想の倍近い150名があふれた。

 思えば「博覧会」は、19世紀半ばから20世紀初頭の帝国主義・植民地主義時代の黄金期に於いて盛んに開催された国家的イベントであった。1889年のパリ万博では「アジアやアフリカなどの集落が会場に再現され、そこに現地人を住まわせる大規模な屋外展示が行われた。こうした施設には、西洋人とは異なる身体や異国の風景を楽しむ娯楽的な要素と植民地経営の成果を誇示する役割が担わされており、その後の万博でも定番化した」(毎日新聞 2022年3月26日「「人類館」に問われる私たち 小原真央」) 「理解」による差別であり、娯楽であり、支配である。

 歴史をふりかえってみよう。「学術人類館」が設置された第5回内国勧業博覧会の開催は1903年(明治36年)。日清戦争は1894年(明治27年)から1895年(明治28 年)にかけてである。

 その頃に延べ千人にも及ぶ清国兵捕虜が日本に連れて来られ、長期間狭い船倉に押し込められ、上陸時「堪えがたき臭気」を放ち、「臭穢に恐れ鼻をつまなざるなく」といった状態のかれらは、あえて大阪(南北御堂)、名古屋(建中寺)、東京(浅草東本願寺)といった都市中心部に収容されて、「女子どもを含む」数百万の見物客がその清兵たちを「見学」した。特に女性たちは着飾ってその列にならんだ。それは「文明」が傲然と「野蛮人」を見下す目線であったろう。同時に金城さんの言う「理解による差別」である。

 現代のわたしたちはまた、先のロシアによるウクライナ侵攻のさなかに「金髪の青い目をした欧州人が殺されているのは堪えがたい」といった言葉が語られるのを聞いたばかりだ。それもまた「人類館的まなざし」であり、「人類館的まなざし」は日本国内はおろか世界中にいまも満ち満ちている。120年前の人類館「事件」はいまだ未解決であり、始まったばかりであり、いまもなお続いている問題だという由縁だ。

 たしかダゴールだったと思うが、金城さんは最後にこんな引用をした。「偏見とは、他者を理解していないからではなく、自分自身を理解していないことから起こる」 

 まずは内なる「人類館的まなざし」に目を向けよということだろうか。思いがけず実り豊かな半日であった。


帰路、天王寺へ下る道すがらの掲示板にあった「人類館的まなざし」のままのイベント告知






 今回の企画を主催したリバティおおさか(大阪人権博物館)では現在、多数の人権資料を“大阪の知の拠点”大阪公立大学で未来へ継承するために2億円の寄付金募集を募っている。詳しくは以下に。


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