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哀しき鬼・丘崎誠人に捧ぐ 【My Dark Tourism 奈良】

 土曜。朝からふらりとバイクに乗って、月ヶ瀬村を訪ねた。あの事件の集落を見たくなったのである。青年が生まれ育ち、ついに捨てきれなかった故郷の村の風景を。うららかに晴れた暖かな朝だったが、柳生の里を抜けるうねうねとした山間の道は日も差さず、ひどく寒かった。

 事件は1997年の5月に起きた。梅林で有名な村の中心部から川ひとつを跨いだ山間の集落で下校途中の中学2年の女子生徒(当時 13歳)が行方不明となり、付近からタイヤのスリップ痕や女生徒の着用していていた靴やジャージなどが見つかった。二ヶ月後におなじ集落内に住む25歳の 青年が逮捕され、自供から伊賀上野市郊外の峠で白骨化した遺体が発見された。翌年、青年に対して奈良地裁は懲役18年の一審判決を申し渡したが、検察側がこれを不服として控訴し、2年後に大阪高裁により無期懲役の判決。青年は弁護団のすすめにもかかわらず上告をしないまま刑が確定し、去年の夏、収監先であった大分刑務所の独房内にて自らのランニング・シャツで首を縊って果てた。29歳だった。

 事件は当時、いたずら目的の稚拙な誘拐殺人といったニュアンスで報じられたように思う。だが今年になって雑誌に掲載されたレポー ト(新潮45・7月号「虐げられた人びと」中尾幸司 2002)や、裁判の係争中に弁護団の一人がある機関誌に寄せた文章(部落解放なら第12号「月ヶ瀬事件と差別」高野嘉雄 1999)などに目を通すと、そこからまた、べつの風景が浮かびあがってくる。

 青年は逮捕後、事件の動機として、集落の住民によるじぶんや家族への差別があったと供述した。月ヶ瀬は現在も与力制度といわれる 昔ながらのしきたりが残っている村である。村史を繙くと、慶長年間に幕府が農村支配の末端機関として相互観察・全体責任などの目的のために設けた五人組制度がその源ではないか、という。与力というのは同族組織より選ばれた村の複数の代表のことである。たとえば「区入り」という、村の一員として認められるためには二人の与力の推薦を必要とする。与力には「一家の重要な事柄は喜憂一切」を相談せねばならず、「結婚相談はもちろん、仲人の決定まで与力に相談しないと将来の交際に支障をきたすという」「与力は“縁者は一代、与力は末代”と親類以上に頼りになり、一面言うことをきかねばならぬ権威ある存在であった」 (月ヶ瀬村史)

 以下に続けて、これに関連する記述をふたつ引いておく。

1. 葬式には運営その他、一切の指揮をとり、家族全員手伝って山仕をつとめたり、会計もつかさどる
2. 家の普請などのときに手伝う
3. 結婚の結納、荷の受領、披露宴などでは、与力が親族代表として挨拶をする
4. けんか・土地の境界争い等の仲裁・調停をしたり、身元引受人になる
5. 出産や祝い事には親類としてつき合い、失火など、他に迷惑をかけた場合などは親類代表として詫びをする

(月ヶ瀬村史)

 B地区には与力制度というものがあり、地元民二人の推薦がない限り、区入りができない。区入りができないと区有林を利用する権利等はない。冠婚葬祭は与力が仕切ることとなっているため、又地区内での交際 も与力関係の者同志での交際が中心であることから、与力がないと事実上村八分のようになってしまう。区入りの概念は必ずしも法廷では明確にされなかった が、B地区の区長の証言によれば、区入りとは「皆さんと一緒にこれからお付き合いしていくということ」とされている。

 被告人の母の法廷での証言によれば「地区民から、家が焼けたり、人が死んで葬式ができなくても、それだけは村で寄ってやってやる、それ以外はつきあわない、と言われた」というのである。

 他方で、地区の負担金、労働奉仕への参加等の義務 の履行は、地区入りしていようといまいと、同じように求められている。負担金については家の「格」により金額が異なり、被告人の家の負担金は最低ランクであった。被告人の父らが、地区での集会等への参加を求められたり、地区役員の選任の機会を与えられたことも全くない。

(高野 嘉雄「月ヶ瀬事件と差別」部落解放なら第12号)

 ほかにも月ヶ瀬では、集落ごとに税金の申告・支払いをまとめている、という。もちろんこれらは僻地の山村における相互扶助の役割を果たしているわけだが。

 一方、事件を起こした青年の家族は30年以上も前に隣村から移っててきたが「区入り」は果たしていない。村の民生委員を務める、かれがその命を奪った少女の祖父の計らいによって家族は、村はずれの日当たりの悪いじめじめとした傾斜地にかつては物置として使われていたトタン屋根とベニヤ板の壁のあばら屋に住みついた。冬には隙間風に悩まされ、室内にはいつも鼠が走りまわっていた。風呂は薪で、「下水道敷設の分担金が支払えなかった」 ために便所はなく、外に掘った穴で用を足していた。内縁関係にある青年の両親は、ともに日本人と朝鮮人の間に生まれたハーフであった。お茶の栽培農家がほとんどを占める村内にあって、二人は行商や日雇いの仕事で家計を支えた。寡黙な父には愛人があり、気が強い文盲の母は子どもに金だけを与えて放任した。毎日、長女がおかずをつくり、それをみなが好き勝手な時間に食べた。会話もない、ばらばらの家族だった。

 小学生の頃、青年はいくつかの「差別」を受けたと語っている。三年生のときに集落の公民館が何者かに放火されたときには多くの住民がかれを疑い、つき合いを避けるようにと子どもに言い含めた。川原で遊んでいたときに“そんなところで遊ぶな”と石を投げられた。殺された少女の家のビニールハウスが燃えたときや、青年団の祭りのときに現金が紛失したときも疑われた。中学二年のとき、「教師がエコヒイキをし、何かというと体罰をするということがキッカケ」で不登校となる。その間、担任の教師が自宅を訪ねたのはほんの二,三度で、卒業証書はクラスメートに届けさせ、かれは翌日それを破り捨て燃やした。

 ふたたび前掲の高野嘉雄氏の文章を引く。

 被告人は、被告人あるいはその家族が受けた仕打ちについて「よそ者」扱いと表現している。そのような対応の根底にあるのは、彼自身が在日朝鮮人と日本人とのいわゆる「混血」であること、両親が正式に婚姻していないこと、田畑を持たず、土木工事や賃雇いが生計の道で、極貧であること、家が狭くて劣悪であること、両親が不仲であること、母が文字の読み書きができないこと等に対する地区住民や教師、級友たちの嫌悪感に根ざしていることを被告人は知っている。

 被告人は、級友が届けた中学校の卒業証書を、届けられた翌日に燃やしている。その際の思いは弁護人らの想像を絶しているというしかない。

 被告人の心の中に社会、人間に対する深い絶望と激しい怒りが確実に刻み込まれていたことだけは疑いがない。

 被告人は中学卒業後に数多くの職業を転々としてい るが、勤務状況に粗暴な傾向は全く窺われず、むしろおとなしく静かな人とみられていた。前科、前歴は交通違反以外全くない。

 表面的には静かでおとなしい被告人の胸の底で、B地区内で「よそ者扱い」をされ続けてきたことに対する暗い、激しい怒りがくすぶっていたのである。

(高野 嘉雄「月ヶ瀬事件と差別」部落解放なら第12号)

 青年の語った「差別」について、裁判の席において、村の住民も学校の教師もそのことごとくが「そのような差別はなかった」と否定している。だが前掲の新潮45の記事を書いた中尾幸司氏は取材中に聞いた、次のような村人の「嘲笑まじりの」証言を記録している。「村の人間は、あの家族を明らかに見下しとるよ。年寄りが多いから、どうしても古い体質がある。現に私自身も村の人間が“朝鮮がっ ! ”って吐き捨てるように蔑むのを聞いとるしね」 また「部落解放なら」の編集部も「母親はY村の部落民」「父親はYの部落周辺に住めなくなって10数年前 にここに移住した」といった村での風評を記している。

 中学卒業後、青年は職を転々とするがどれも長続きしていない。測量事務所のアルバイト、土木作業員、警備員、左官見習い。大阪や東京の飲食店で調理師見習いとして働いたこともあったが、住み込みが性に合わなかったのか、ふらりとまた村へ舞い戻った。そんななかで車は、かれの唯一の 安らぎの空間であったようだ。カーステでかけるのはドリカムやチャゲ&飛鳥。「特に初期のドリカムの、都市生活を楽しむ若者たちの屈託ないラブソングがお気に入りだった」(新潮45) 事件のひと月ほど前に買ったばかりの大型四駆「三菱ストラーダ」の走行距離は、事件後に売却される三ヶ月の間に5,300キロに達していた。

 そして事件当日。ここでも修羅は、一見何気ない、のどかなごく当たり前の光景からその首をもたげる。やはりこれも、高野嘉雄氏の 文章を引く。

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