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【日記】『朝鮮人女工のうた A SONG OF KOREAN FACTORY GIRLS』を観る。

 泉州岸和田の造り酒屋であり第五十一銀行や南海鉄道などの創立・経営にも参加した寺田甚与茂によって1892(明治25)年に設立された岸和田紡績は、全国でもっとも多くの朝鮮人女工を使っていたことでも有名で、その数は1918年からの20年間で5万人ともいわれる。低賃金で大量に雇えるという寺田の経営理念によって当然のことながら、日本の植民地支配によって故郷を追われ、海を渡ってきた年若い彼女たちを待ち構えていたのは最底辺の過酷な労働条件と労働環境であった。イ・ウォンシク監督による『朝鮮人女工のうた A SONG OF KOREAN FACTORY GIRLS』は、彼女たちの失われた声をとりもどすための試みである。


 在日朝鮮人としていまも日本で暮らす90歳代のハルモニたちが、かつての岸和田紡績での日々を語る。朝鮮教会の歴史をめぐるフィールドワークを重ねてきた日本人牧師が、残された刑務所のように高い煉瓦塀や死亡した女工が葬られたと伝わる広大な共同墓地をさまよう。一方で、「朝鮮豚」と言われて雇い側や日本人女工からも差別されてきた彼女たちを、現在の在日劇団の若い女優たちが演じる。そこで語られるのは隠されたおにぎりや、牢獄のような地下道、赤ん坊の汚れたオムツ、浜辺のホルモン焼き、綿埃、南京虫だらけの布団、そして睡魔や結核や死といったもろもろだ。それらの細部によって百年前の声が蘇り、現在の時間と共鳴して、あちら側とこちら側がつながる瞬間がある。「元気ですか?」と百年前の彼女が語りかければ、「はい、元気です」と現在の彼女が応えて微笑む。歴史とは、そのようにつながることだ。一方の端がゆらいだら、片方の端もおなじくゆらぐ。ほんとうの歴史とは、そうでなければならない。


 過酷な環境でわずか10代のいのちを終えた彼女たちの亡骸を葬ったと伝わる共同墓地で、現在の時間の日本人牧師が「アイゴー パルチャヤーと叫んだ、と書いてある。地面を打って泣き叫んだ、ということが書いてあります」と解説してから、「こういうことは机の上で文字を読んでも伝わらない。でもここでことばにすると、彼女たちの亡骸が眠るこの場所に反響していくようだ」と言って一瞬、ことばを詰まらせる。おなじように、わたしがかれの語ったことで印象的だったのはもうひとつ、女工たちの人生はけっして受難だけであったわけではない、そこには勝利もあった、と語る場面である。作品のなかで、朝鮮人女工たちによくしてくれた日本人の寮母が会社側に解雇されたとき、女工たちが立ち上がって抗議の声をあげたという話が出てくる。チマチョゴリに紡績工場のエプロン、胸を張って並び立つ彼女たちの背中になびく赤いテンギ姿のティザーポスターは、最終的に会社側に敗れはしたが、みな誇りに満ちた清々しい顔をしていたと語られる彼女たちのそんな「束の間の勝利」を物語っている。


 何年か前の暑い夏のさなかに、わたしもその共同墓地を朝鮮人女性のものと伝わる自然石の墓石を探して優に一時間、汗だくになって歩きまわったことがある。やっと見つけたその素朴な石の前でぼんやりとしゃがみ込んでいたら、彼女たちが休みの日に野菜の天ぷらなどを買って海岸で食べるのが唯一の楽しみだったというくだりを思い出して海を見に行きたくなった。そうだ、海を見に行こう、とひとりごちて岸和田の海岸まで歩いて行った。そこに、差別され、蔑視され、殴られ、ときに犬のように捨てられた彼女たちのささやかな、しかし「束の間の勝利」がある。隠し持ったおにぎりを深夜に押し入れから取り出して頬張るとき、故郷から送られてきた手紙に文字が書けないために返事を送ることもままならないとき、南京虫だらけの悪臭のする万年床にくるまって眠るとき、口惜しくて、悲しくて、情けなくて歩きつづけた、泣きつづけた彼女たちの声が、感情が、そのささやかな「束の間の勝利」と共に立ち上がる。


 前(さき)を訪(とぶら)う、ということばがある。親鸞が『教行信証』で引いた中国唐時代初期の僧・道綽禅師の言葉で「何となれば、前(さき)に生まれん者は後(のち)を導き、後に生まれん者は前(さき)を訪(とぶら)え」とは、来ない死者を待つことだと、ある親しい人が説明してくれた。「来ないものを待つ」と、あらわれてくるのは死者の霊であり、日本の古い芸能である「能」がそうであるように、呪詛の言葉が尽きると霊は消えていく。来ない死者をひたすら待ち続けることによって、失われたものたちの声は立ち上がり、語り出す。待つことは歴史の一方の端がゆらぐことによって、来ない死者たちが応えることだ。イ・ウォンシク監督による『朝鮮人女工のうた A SONG OF KOREAN FACTORY GIRLS』は、来ない死者たちを待つことによって語らしめる。わたしたちはそこに参与する。


 前(さき)を訪(とぶら)うことによって、後(のち)を導くことができる。わたしたちはその礎(いしづえ)である。


※『朝鮮人女工のうた A SONG OF KOREAN FACTORY GIRLS』は2024年5月の全州国際映画祭に出品された。8月7日の韓国ソウルでの劇場公開を皮切りに全国の劇場で上映される。日本でも今後、多くの上映会の機会を持ちたいとの監督の意向だ。ご協力をお願いします。








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