【日記】 完結を抗う丸木夫妻「原爆の図」(22.11.16)
愛知県立芸術大学主催の「芸術講座《災害と文化財》講座シリーズ第7回「原爆の図」-よみがえる想い-」をZOOMで視聴参加、「原爆の図」丸木美術館の岡村幸宣さんの話が滋味深いものであった。
丸木位里と丸木俊夫妻が描きつづけた『原爆の図』は絵=<物体>である。岡村氏はそこへ「身体性」ということばを添える。「『原爆の図』は過去の記憶を現実にむすびつけるメディアであった」 合わせ鏡のように、絵を見ているわたしたちの< 時間>もそこに流れ込む。1950(昭和25)年に二人の共作によって完成した第一部の《幽霊》から、『原爆の図』は過ぎた過去ではなく、常に現在とクロスしながら描かれていった。
第一部の《幽霊》が描かれた1950年は、朝鮮戦争の始まりだった。1955(昭和30)年の第九部《焼津》には、前年にビキニ環礁で被爆した第五福竜丸が描かれた。1971(昭和46)年に第十三部《米兵捕虜の死》が描かれたのはベトナム戦争のさなかである。翌年 1972年、第十四部《からす》には石牟礼道子氏の文章を添えて被爆した朝鮮人の人々の無残な死が描かれた。二人の絵は、リアルタイムで抗いつづける。 1982(昭和57)年、第十五部《長崎》。
『原爆の図』は最後まで完結されなかった、いまも閉ざされていない、読み直されれつづける、と岡村氏は言う。「原爆を考えているうちに、それだけでは済まなくなった」 《南京大虐殺の図》(1975年)、《アウシュビッツの図》(1977年)、《水俣の図》(1980年)、《沖縄戦の図》(1984年)。二人の絵はまるでやむにやまれず増殖する奇怪な細胞のようにとめどなくひろがってゆく。
絵とおなじように、埼玉の長閑な川沿いの地に建てられ、絵が完成するたびに増築が繰り返された「ツギハギの美術館」もまた有機的な二人の作品のようだ。
『原爆の図』について最後に岡村氏が宣べたことばは、軍人墓や紡績女工や在日コリアンの隠された歴史などをめぐってばかりいるわたし自身をあたかも代弁してくれたかのようだ。
「過去の歴史を呼び起し、現在につなげ、未来への予兆を感じとる」
まさにそのように、わたしもあるいているのだった。
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