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奈良教育大周辺に戦争遺跡を訪ねる 【My Dark Tourism 奈良】

 奈良観光、というと何を思い浮かべるだろうか。大方の人は鹿のいる奈良公園、大仏殿の東大寺、興福寺、それに町屋風情のならまち界隈で粋なランチを、なぞと考えるかも知れない。そんなありきたりの奈良観光に飽いたら、ちょっと目線を変えて、こんな奈良探訪はいかがだろうか。

 先日、奈良県立同和問題関係史料センター主催の「歴史講座」現地研修へ参加してきた。集合場所は奈良教育大近く高畑町バス停。地元でない方は猿沢池から白毫寺への中間点あたり、と言ったらおよその目途がつくだろうか。目の前に奈良地方法務局の建物があり、柵のすぐこちら側には歩兵第三十八聯隊の軍旗をあしらった記念碑が街路樹の間に覗いて見える。じつは、これが今回の奈良探訪の指標である。当日配布された資料の冒頭を引こう。

 奈良は文化財が多いため、戦争の被害も少なく、他の都市のような悲惨な様子もなかったように語られているが、奈良も戦時体制に組み込まれていて、他の地域と同じく戦争は庶民生活の奥深くにまで入り込んでいた。そして、現在でも奈良にはその痕跡が多く残されている。

令和4年度 県民歴史講座 配布資料から


歩兵第三十八聯隊 記念碑 (奈良第2地方合同庁舎敷地内)

 奈良は軍都であった。1909(明治42)年、日露戦争後の軍拡により歩兵53聯隊が新設され、満州事変後の1934(昭和9)年に京都・深草から歩兵38聯隊が移ってきたのが、現在の奈良教育大の敷地であった。38聯隊は中国各地を転戦し、1937(昭和12)年の南京攻略の際には第16師団の第二軍として南京虐殺事件にも関わった。その際は奈良教育大から東大寺大仏殿へ至る「聯隊道路」には提灯行列がならんで人々が戦勝を祝ったという。

「敗走兵七千名を 一人残らず射殺  死体で埋めた南京下關驛  輝く助川部隊の奮戦」

 その後、戦局の悪化に伴い南方へ転身した38聯隊は、1944(昭和19)年7月、米軍の侵攻を受けたグアム島で全滅する。敗戦から28年目の1972(昭和47)年に発見され帰国した横井庄一さんは38聯隊の陸軍軍曹であった。当時、「大宮島」と呼ばれたグアムの日本名称は戦死した兵士の墓に刻まれていまも残っている。


JR畝傍駅に近い今井町共同墓地の軍人墓

 当日、集合場所のバス停前に集まったのは20名ほど。平日のためか、高齢の人が多い。センターの深澤所長氏の先導で一行は学生たちで賑わう奈良教育大のキャンパスへ入っていく。じきに吉備塚古墳の前を抜ける。クヌギなどが数本立ちならぶ小さな墳丘だが、古くから吉備真備の墓だとの伝承があり、夜な夜な真備の霊が現れるとか、古墳に害するものが病につかれる等の噂がまことしやかに語られ、戦前の陸軍も、戦後に駐屯したGHQ(米軍)も祟りを怖れてか手つかずのまま残ったという。

 この吉備塚古墳を8世紀に生きた吉備真備の墓とする説は古墳の年代(6世紀)から合致しないのだが、じつはかつて吉備塚古墳の周辺には幸徳井家という、賀茂氏の流れを汲む陰陽師の一族が居住していた。かれらは吉備真備を陰陽師の先祖として祀っていた。吉備塚に関する伝承はこの幸徳井家と、その後かれらの仕事を継いだ陰陽町(奈良市)の陰陽師たちによって伝えられてきたと推測される。奈良教育大の敷地にある小さな円墳に、そんなかつての被差別民たちの歴史の息遣いが生きている。

「奈良名所絵巻」 1705(宝永2)年


 話を歩兵38聯隊へもどす。奈良教育大学内に残る38聯隊当時の遺構はいくつかあるのだが、この日わたしたちが見学したのはまず北側中央に位置する食糧などを保管していた糧秣庫。1908(明治41)年頃の建築とされる煉瓦造平屋建ての建物で、現在は一部改修されて「教育資料館」として利用されている。もうひとつは南西角に残る弾薬庫。やや小ぶりな建物で、かつては煉瓦躯体にモルタルが塗られていたのが煉瓦を出した状態で改修されたようだ。弾薬庫ということで、事故の際の被害を抑えるための土塁が当時の風情を残している。因みに隣接する現在の弓道場は占領期、米軍の射的場だったらしい。

糧秣庫 1908(明治41)年頃


弾薬庫と土塁

 奈良教育大を出て南西、紀寺の市営及び県営住宅の方へ向かう。ちょうど県営住宅から西へ169号線までの直線がかつての滑走路の跡だ。およそ300~400mといった距離だろうか。戦闘機などを飛ばす本格的な滑走路ではなく、セスナ機のような小型機用のものだったらしい。後日に調べてみると昭和15~16年頃に添上農學校滑空部、奈良中學校グライダー部、奈良縣立郡山中學校航空部、正氣書院商業滑空部(当時)などが滑空場として利用していたのが、昭和19年に奈良歩兵聯隊練兵場の「奈良航空教育隊」となり、戦後は接収され、滑走路を延長して連絡機用に使用されたそうだ。


滑走路跡 (奈良市東紀寺町)

 滑走路跡の西端からならまち方向へ路地を入っていくと、かつて榎の巨木があった梅園の野神さんがあった。雨乞いを行なったり、また春日大社の若宮祭の祭礼に於いて一の鳥居の東側でこの地域の住民が能を舞うしきたりがあったとも伝わり、何らかの芸能民との結びつきも推測される。


梅園の野神さんにあった榎

 野神さんを過ぎ、猿沢池の方向へ北上すると璉珹寺である。このあたりの地名「紀寺」は古代の紀氏一族の氏寺があった場所と伝えられ、璉珹寺はその紀寺をルーツとするとも言われている。裸像にじっさいの着物を着せた、珍しい「秘仏 女人裸形阿弥陀仏」は毎年5月に開扉されるが、今回見に来たのは境内の「阿波丸慰霊塔」。太平洋戦争中の1945(昭和20)年4月にシンガポールから日本へ向けて航行中であった貨客船「阿波丸」が、アメリカ海軍の潜水艦「クイーンフィッシュ」の雷撃により撃沈され、2,000名以上の乗客乗員のほとんどが死亡した。この阿波丸は日米間の協定で安全航行を保障されていた緑十字船だったが、一説には軍の強要で秘密裏に軍事物資を輸送していたのをアメリカ側に察知されたために攻撃されたともいわれる。東京・芝の増上寺境内にも「阿波丸事件殉難者之碑」があるそうだが、璉珹寺は寺の関係者が犠牲者の遺族だった縁でとの説明であった。

璉珹寺の阿波丸慰霊塔

 続いて璉珹寺のすぐ北に隣接する崇道天皇社は、桓武天皇の弟で長岡京造宮にかかわる藤原種継暗殺事件に連座して淡路へ流される途中で餓死した早良親王を祀る御霊社で、ここには屋根に蝸牛を載せた燈篭があり、これらは雨乞いの神事に関わった被差別民衆の姿が垣間見られるという。


崇道天皇社 蝸牛を載せた雨乞いの燈篭

 崇道天皇社から路地をもうひとつ西へずれると真正面に興福寺の五重塔が見える。そこからもう二つ、西へ路地を換えると鳴川町の徳融寺である。ちょうど近鉄奈良駅から東向商店街を経て、そのまま餅飯殿センター街を南下してきた筋である。はす向かいに中将姫の誕生寺があるように、この徳融寺も中将姫ゆかりの伝承や石塔などがあるが、今回の目的の一つは本尊の子安観音立像で、有名な明治はじめの「浦上四番崩れ」によって大和郡山藩に流配された庄八がこの赤子を抱いた観音立像に聖母マリアと幼子イエスの姿を見出し、熱心な観音信者となって他の殉教者たちの供養を続けたというものだ。因みに大和郡山市内には亡くなった信徒の墓碑銘や、かれらが収容されていたと伝わる寺などがある。


徳融寺 キリシタンの庄八が聖母マリアとイエスを見た「子安観音立像」

 徳融寺は吉村長慶の吉村家の菩提寺であったことも、この寺の特色となっている。吉村長慶は知る人ぞ知る奈良市の奇人変人。1863(文久3)年に奈良市薬師堂町で生まれた彼は、奈良市議会議員を務め、北浜の相場で稼いだ金で関西各地に風変わりな石造物を多数残した。高野山奥之院を訪ねた人は「宇宙庵」などと書かれたフロックコート姿の長慶像を見たことがあるかも知れない。徳融寺にも長慶像や巨大な墓があるがもうひとつ、「世界二聖像」と呼ばれる石碑が境内に坐っている。片面には大日如来が描かれ、反対側には地面に横たわる釈迦とキリストを長慶が揺り起こしている。「戦争の足音が近づいている、このままでは日本は大変なことになる。釈迦よ、キリストよ、早く目覚めてくれ」というわけである。表面にはじっさい「軍馬のいななきで国が亡ぶ」といった漢詩が刻まれていて、時局柄、扉を付けて隠していたという。これが前述した聯隊道路で南京攻略を祝った提灯行列に人々が高揚していた1937(昭和12)年につくられた石碑だというのも驚く。


吉村長慶の「世界二聖像」


長慶自像 (徳融寺)

 徳融寺の北側には奈良市音声館がある。この地下にかつて1944(昭和19)年に地元の青年団らによって掘られた防空壕があった。20~30人が収容できた大がかりなものだったらしいが、発掘後に埋めもどされている。音声館の北側の小路が町名の由来である鳴川で、現在は暗渠となっているが、「その昔、群蛙が小塔院の僧の読経を妨げたので、神呪を唱えこれを止めさせた。後世、蛙の声を聞かなくなったので不鳴川(なかずがわ)と称したが、何時の間にか誤って逆に鳴川と呼ぶようになったという」由来も伝わる。


音声館横の鳴川暗渠の小路 (鳴川町)

 鳴川の説明を終えた深澤所長はそのまま音声館の向かい、「元興寺小塔院跡」と解説板の立つ樹木に囲まれた狭い坂道をのぼっていく。じつはわたしたちが「元興寺」として知っている極楽坊は元興寺の僧房の一部であって、本堂や塔などの主だった施設はその南側の広いエリアに配置されていたが、1451(宝徳5)年の土一揆による焼き討ちで燃え、残った建物もその後倒壊してしまった。小塔院跡はいまでは住宅地にはさまれた子どもの秘密基地のような細長い空間で、そこに寂れた虚空蔵堂や、石仏、僧侶の墓などが時を忘れ、叢(くさむら)にひっそりと佇んでいる。


元興寺塔址

 小塔院跡を抜け、率川神社を巻くように路地を回り込むと、「元興寺塔址」の石標が立っている。山門をくぐり、地蔵堂の前を過ぎると、ぽっかりとひらけた空間に黒々とした五重塔の礎石がはべっている。最後まで創建当時の姿を伝えていた東塔は1859(安政6)年の失火で焼失したそうだ。ここでの目的は本堂前の啼燈籠で、1257(正嘉元)年の刻銘のあるこの石灯籠は1944(昭和19)年12月の東南海地震で倒壊し、長年そのままであったのが2010年に元の姿に修復された。戦争末期に発生した地震は東海地方を中心に多大な被害を及ぼしたが、アメリカに被害状況が漏れることを怖れた軍の情報統制により箝口令が敷かれ、長年知られることがなかった。死者は全国で1,000人以上とも言われ、名古屋市南区にあった三菱重工の道徳飛行機工場では57名が死亡、そのうち6人は、朝鮮半島から連れて来られた女子勤労挺身隊の少女たちだった。跡地に建てられた慰霊碑の裏手にひっそりと添えられたハングル語の石碑の裏には「悔恨と激憤の現場で、今、私たちの行くべき道を問う」と記されている。石灯籠の継ぎはぎが異国の地で押しつぶされた少女たちの最後の悲鳴のようにも思われる。


復元された啼燈籠

 最後はそのまま元興寺極楽坊の前を抜けてならまち大通りへ出て大乗院庭園の方向へ進んだ、現在自衛隊の官舎となっている敷地で、ここにはかつて奈良憲兵隊分隊が置かれていた。前庭の銀杏の樹と道路側の石塀、そして敷地内に残された花崗岩切石のみが当時の面影を伝えている。


奈良憲兵隊分隊跡地 (奈良市高畑町)

 約3時間弱のツアーがこれで終わり、そのまま現地解散となった。10時から始まって、すでに昼の1時に近い。わたしはもう1ヵ所、行ってみたいところがあった。もちろん、昼食である。歩きまわってお腹がぺこぺこだ。予め目星をつけていた店は、さいしょの集合場所である奈良教育大に近い。スタート地点へもどるように歩いて行ったのは、紀寺幸町の住宅街にある和廣飯店である。ファサードの店名は一部剥がれ、ショーウィンドウのサンプルは生い茂ったアロエで半ば隠れている。こういう店は間違いない。あとは写真で・・


ニラ炒め定食 500円
餃子 300円


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