見出し画像

「Z世代」とZ世代の端くれがZ世代に思うこと①

 我々はゆとり?Z?

 どうやら、1996年生まれは「Z世代」に括られるらしい。それを初めて聞いた時、僕はそこに括られることに変な感覚を抱いた。

 ゆとり教育が始まり、土曜日に公立小学校の授業が無くなったのは2002年のこと。僕はその翌年に小学生となったので、「土曜日に学校がある」というのを体験しないまま義務教育を終えた。私立高校に進学し、そこで初めて「土曜日の授業」というものを経験した。
 高校生の時、小学生だった妹の教科書を見せてもらったことがある。細かい単元までは忘れたが、小学生で習うには難しすぎるのでは、と思った項目がいくつかあった。「ゆとり」が見直されたのはちょうどその頃の話だ。なんとなくではあるが、世代がここで分けられてしまった気分だった。たまたまかもしれないが、ガラケーからスマホにシフトチェンジしたり、SNSが主流となったのもその頃。
 そんなことがあったから、自分を「ゆとり世代の真ん中らへん」と意識していた。自分の一個上が、「ど真ん中」なので真ん中「らへん」。台風の目から少し外れたところにいるような感覚である。

 「Z世代」という言葉が使われ始めたのは、元号が令和に変わって少し経ったぐらいだろうか。その言葉がもてはやされた頃、なんとなく新しい世代というイメージを持っていた。「中学生になった時にはすでに、スマホやSNSなんかが既に存在している年代」。それが「Z世代」の個人的定義だった。

 ある時、同年齢の知人が自らを「Z世代」と名乗っていたのを聞いた。直接は言えなかったが、「いやいや、俺らは『ゆとり』でしょ」と内心思った。新しい世代に自分(たち)を重ね合わせるなんて、ハタチを超えた人間がやるには少しイタいんじゃないのか?、とまで思ってしまったほどだ。しかし、それは間違いだった。

Z世代とは主に欧米での呼び方で、Y世代・ミレニアル世代の次に当たる1990年代半ばから2010年序盤生まれの年齢層の若者を指します。日本ではゆとり世代の次の世代として、デジタルネイティブ世代とも呼ばれたりします。

https://www.nri.com/jp/knowledge/glossary/lst/alphabet/generation_z

 この定義に則るなら、1996年生まれは「ゆとり世代の次の世代」らしい。一回り下の世代と同じ扱いというのが不思議でならなかった。この括り方は無理があるように感じた。まず、生まれた世紀が違う。そして西暦の千の位も違う。それらに関しては、我々がギリギリのタイミングで生まれたから致し方ないのかもしれない。それでも、「ゆとりの次」と言われるのにはどうしても慣れなかった。そもそも、平成ヒトケタと平成20年代が同じ扱いというのが変な感覚である。約15歳差がある人と同じ世代というのは、上だろうと下だろうと不自然な気がする。

「きらめくZ世代」と片隅にいる世紀末の申し子

 Z世代という言葉には、一定の輝きのようなものを感じる。若さ、最先端、流行…。これは自分がZ世代に括られることに複雑な思いを抱く理由でもある。若い、若くないの間にいるような年齢の人間がやれ最先端だとか、流行だとかに闇雲にノッて良いものか。精神的に年寄りめいているかもしれないが、Z世代に向けたイベントを調べるとその思いは強固なものになる。



 このイベントの「未来を担う」という文言や出演アーティストを見ても、自分が世代から少し外れた場所にいるように感じる。90年代後半生まれは未来どころか、そろそろ色々担い始めなきゃならないところにいる。職場然り家庭然り、そういう局面にいる人もそれなりにいる。未来を担うといえばそうとも言えるが、この世代の中にはもうすでに色々な立場を担っている人が少なくない。


 Z世代向けのイベントをいくつか並べてみたが、その全てが自分より下の世代の人に向けられたイベントのように思う。もちろん、イベントの性質にもよるのかもしれないが、なんとなく場違いな気がするのである。

 物心ついた時にはスマートフォンが存在し、それさえあれば踊ったり、書いたり撮ったりできる。Z世代は、デジタルネイティブとも呼ばれるのだが、そこの第一世代に括られる世紀末生まれの我々はどういう立ち位置にいるのだろう。人生の諸先輩から見たら確かにネイティブなのだろう。しかし、10代の多感な時期に、InstagramやTikTokなんてなかったし(ちょうど産声をあげた時だったか)、その時のSNSはTwitterやmixi、アメーバブログなど文章や画像中心で、今よりもさっぱりしていた。全世界に向けて動画を撮るなどというのは、まだ「プロしかできない」扱いだった。つまりは、表現の幅が狭かった。
 様々な伝達手段を駆使して、物心ついた時から自分を表現できるというのはどこか羨ましい反面、恐ろしいことだと思う。自分たちの世代やその下の世代の人々に、表現の恐ろしさを理解している人はどれくらいいるのだろうか。自分がそれを完璧に理解しているわけではないし、他人に色々言える身分でもないのはもちろんのことだが、少なくともそういうジジ臭い不安みたいなものを持っている。下の世代からしたら、それは余計なお世話なのかもしれない。もしかしたら、こんなことを言うと上の方々からは「この若造が偉そうに」と眉をひそめられるだろう。なんというか、肩身が狭いし、そういう意味でのアイデンティティがぐらついている。

 ちなみに、Noteの拙著『Marcy's Movie Garage』シリーズでは、キャッチコピーとして「ゆとり世代の映画レビュー」という表現を使っている。それは散々社会に「ゆとり」扱いされ(時には揶揄もあり)、やっとこさそれを一つのアイデンティティにしかけたところに、「Z世代」などという新たな枠組みに組み込まれてしまったことに対する、96Lineのささやかな抵抗だと思っていただきたい。


サポートありがとうございます。未熟者ですが、日々精進して色々な経験を積んでそれを記事に還元してまいります。