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不要と思ってたハンドスピナーから学んだこと

 これ、生活には要らないだろ。
   そう思う商品は幾多とある。それがないと生きていけないわけではないし、それがないから特段不便、ということもない。
  そういうものが自分を救うことがある。

   昨年、ハンドスピナーを買った。
 それを買うまで要らないものだと思っていたが、実際に買ってみて後悔はしていないし、寧ろ買って正解だった。
 僕は手癖が悪い。それが癖になっているし、常に何かを触っていないと不安になる。
   僕には手にしたものを弄る癖がある。ボールペンのクリップの部分に指を挟み、パチパチと音を鳴らしてみたり、輪ゴムを伸ばしたりこねてみたり。今まで私はそうしていくつもの文房具や机上の雑貨を壊してきた。クリップのないペン、ちぎれてヨレヨレになった輪ゴム、伸び切ったクリップ。破壊行為の最中には何も思わない癖に、壊れてしまった後に強い罪悪感に襲われる。その繰り返しを止める為にハンドスピナーを買った。 
 ただ、くるくる回すだけのもの。買って何になる。それを買う前まではそういった思いの方が強かったのに、壊した文房具たちの前ではそういう強がりは無かった。絶えず動きたがってるどちらかの手をどうにかしてやらなければならない。僕は僕の両手に錯覚を与えると言うわけだ。

 そういうわけで、ハンドスピナーを買った。今まで数々の文房具に向かってた手癖を意図して、それへ向けた。最初は慣れなかったが、だんだんと僕の手はハンドスピナーを求めるようになった。それから、ペンとクリップの犠牲は無くなった。

 これ、いらねーだろ。そうやって軽蔑してきたもの。合理的なものがもてはやされ、効率的な動きが褒められる昨今において、それらは世の中の端っこに置いてきぼりにされることがある。しかし、いらないと思っていたものが何かを救うことは僕らが思っている以上にたくさんあるのではないのだろうか。
 ハンドスピナーが文房具の破壊を防いだように、世の中における遊びの部分が実は必要だったんじゃないかなんてことを忘れがちになってしまうんじゃないだろうか。
 僕は今日も左手でハンドスピナーを回す。特にひねくれた動きも見せずハンドスピナーはくるくる回る。ただくるくる回っているだけなのに、それはクリップのないボールペンを生まないように淡々と仕事をしているのだ。

サポートありがとうございます。未熟者ですが、日々精進して色々な経験を積んでそれを記事に還元してまいります。