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鴨川デルタものがたり(短編)中

下賀茂神社から流れ出る小川は干上がり、その周りに広がる糺 (ただす) の森は蝉しぐれに沈みかけていた。僕と彼女はその蝉しぐれから逃れるように横道に逸れ下鴨本通りに出ると、彼女に連れられるまま何かの研究施設みたいな不思議な響きの名を冠した洋食屋に入った。

学校の教室を大きくしたようなだだっ広い空間に疎らにテーブルが並んでおり、クーラーから出る湿った冷気と厨房から漂う優しい脂の香りが、熱で虚ろになりかけていた僕らの生気を取り戻した。

その場所は初めてではない。僕は一定のパターンを示す床の模様を自分の記憶と照合させていた。あれはランチでもない、ディナーでもない真夜中に見た床の模様だった。もうそれから4年は経っていただろうか。

二十歳の夏の終わり頃、今はもう何だったのか覚えていないが何かに嫌気がさして、つっかけでも履くように終わりかけの電車に乗り、爆睡しているところを終着の京都で降ろされた。どこをどう歩いたか気づけば叡電の出町柳駅、賀茂川と高野川が出会って鴨川になる、いわゆる川のY字路に出ていた。

人間に例えれば恥骨のあたりに葵公園があり、いよいよ2つの河川が交わるその公園の先端から東西の川岸に人工的な大きな飛び石がずらりと並んでいた。川に落ちても水かさは膝にも満たないような場所なので日付が変わるような夜更けにも何組かの人らがおり、みな思い思いに飛び石の端っこに腰掛け、ふざけたり語らい合ったりしていた。

僕はその中でも亀の形をした石を選び、両足をぶりと浮かせて賀茂大橋の橋桁に吸い込まれるように消え行く水を眺めていた。

「あ、流れ星!今の見えた?あれっ、あんまり見いひん顔やねっ」と、隣の石にいた、僕より5つぐらい年上の兄さんが話し掛けてきた。とがった鼻と切れ長の目、それとは対比的なふっくらした唇には何か人に甘い魔術を掛ける猩々の化身のようなあざとさと、人懐っこいあどけなさとが交じり合った不思議な空気感があった。

聞けば、この飛び石あたりは夢を語る人、酔いを醒ます人、眠りにつけない人、ただただ話したい人、ただただ黙ってじっとしていたい人、いろんな人が毎晩のように朝方までたむろしているらしい。

その人の話し方は抑揚があって面白く、京都弁に付ける枕詞としては相応しくないかも知れないが「歯切れのいい」京都弁が耳に心地よかった。やがて知り合いだというちょっと神経質そうなおばさんと、やたらと煙草を吸う女子大生も混じってきてちょっと楽しい時間が始まった。

僕は人生経験がないので聞いてばかりだったが、年齢差を気にせずに話せるという世界に触れたのは初めてだったのだ。

3時も回り、女子大生が煙草を買いに行くと言っていなくなったきり全然戻って来ないのをきかっけに、3人は腰を上げた。

「ちょっと冷えてきたし、おなか減ってきたな。何もないけどうちにスープ飲みにおいで。」
「スープ・・・ですか?家でスープ作ってはるんですか?」
「まあ家ちゃうんやけど、スープならあんねん。近所やし。」
「カズキちゃん、あたしはそろそろ帰るわ。遅番やけどあした仕事やさかい。ほな、ボクもまたね。」

と、おばちゃんは今出川の方向に帰ってしまったので、僕はカズキさんとふたり賀茂川の左岸を辿って下鴨通に入った。

夏の終わりとはいえ、川風にずっと晒されているとさすがに身体は冷えて確かに暖かいものが食べたいと思った。

「うち、親父がレストランやってんねん。」
「こんな時間に入っていいんですか?」
「ええよええよ、ただほんまにスープしかないよ。」

優しい脂の匂いのする店内にカズキさんは最小限の灯りをつけて調理場でごそごそし始める。やがてテーブルの上に置かれた大きめの器には、濃厚な香りを放つポタージュがきざんだパセリを浮かべて静かに湯気をたゆたわせていた。

「おいしいです!めっちゃおいしいです。」
「そやろ。毎日スープだけ飲みに来るお客もおるぐらいやし。」

「あんまり食べたらおとうちゃんにバレるかな。」と言いつつも、カズキさんは上から暖かいのをどんどんと注いでくれるので僕はポタージュってこんなにも食べられるものなのだと思うほどに食べた。

ホールにたった1箇所だけ灯した白熱灯のランプと調理場から漏れる蛍光灯、やさしい脂とポタージュの香り、僕の心と身体がとろけるように温まり眠くなった。

「さっと片付けるからそのまま寝とき。」という声が聞こえたのかどうか、あっと言う間に僕は眠りに落ちた。

「下」につづく
https://note.com/marco_jp/n/n434fd2c4515c?fbclid=IwAR02u19Df4EO92IwlKVj4ngiueyWc6YWazVeKKlmYL7sx9tg1njeDSKDi7k

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