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最初で最後の家出

一度だけ家出をしたことがある。プチ家出。

5年前に大事件となった北海道の大和くんと同じ7歳のとき。
彼は親のオシオキで置き去りにされたが、僕は勝手に家を出た…と思う。
原因。なにせ小さい時ゆえに覚えていないが、親が言うに「欲しいと思った傘を買ってもらえなかった」かららしい。
傘ごときで、と思うが7歳の子供のこころは計り知れない。

大和くんは自らすすんで何日間も姿をくらましたんだと思う。7日間は予定外だったかも知れないけれど、少なくとも数日は親から逃げてやると思ったに違いない。
車から降ろされたのなら自力で街まで下りてやると意気込んだのかも知れない。(本当のことはわからない)。

男の子とはそういうものである。
7歳の僕も、ポケットに1円すら持たず、ただ夕暮れの街路を西に歩いた。
♪おうちがだんだん遠くなるー、遠くなるー、いま来たこの道帰りゃんせ〜帰りゃんせ〜♪
そんな歌が頭に浮かんだかも知れない。
小学校1年生にしては、きっとタクラマカン砂漠を彷徨うような気持ちで、湊川トンネルを抜け、上沢通を西へ歩いた。なぜか須磨の海に行きたかったのだ。

夜の帳(とばり)が電車道を覆い、小雨が降り始めた。いま思えば兵庫区の上沢7丁目から長田区の五番町に入るあたりだったと思う。家からはすでに数キロ離れていた。
雨で額に髪の毛の張り付いたみすぼらしい小さな子供がとぼとぼと暗い電車道を歩むのを見て、「ぼく、どないしたん?どこ行くん?」と、優しいお姉さんが声を掛けた。
「須磨に行くねん」と僕は答えた。
「須磨まで歩いて行くん?!」
とお姉さんは聞いた。
僕が頷くと、「ちょっと待っときな。」とお姉さんは言い、すぐ近くの薬屋に入り、傘と市電代30円ほどを持ってきた。
「要らんねん」と抗(あらが)ったが、強制的に持たされた。

僕は上沢7丁目から4番の市電に乗った。須磨駅前行き。
7歳の子供が暗い夜に一人で市電に。

ここから先は想像である。
お姉さんは、その薬屋の娘だった。
レジから30円を出したのでお母さんに説明をした、「こんな夜に小さな子が一人で須磨まで歩いて行く、と言うたんで市電代を渡したんよ。」と。
お母さんは驚いて、
「あんた、それはちょっとまずいんちゃうの。すぐに警察に連絡せなあかんよ。その子は須磨へ行くって言うたんよね?早く、早く警察に言わな!」と言ったのだと思う。

一方、僕は須磨まで行かず、途中の水族館前で市電を降りた。子供にとっては、そこが新天地に思えたのかも知れない。今となっては理由はわからない。
道路の中の島になっている電停に降り立つや否や、赤色灯を回したパトカーがすーっと近づいてきた。
ものすごいタイミングだが、後から思えば、パトカーは4番の市電をずっとつけて来てそこで僕をキャッチしたのかも知れない。
うむも言わさず、僕はパトカーに乗せられた。ちゃんとは覚えていないが、おそらく名前やその他いろいろ尋問され、須磨警察署ではなく、長田警察署の取調室みたいな部屋に連れて行かれた。


あとはドラマよりも詰まらない。
慌てた親が迎えに来て、僕は親にも警察にも特に怒られもせず、親は「傘ぐらい買うたってくださいよ。」と警察に説教されたのだと思う。祖父にもこっ酷くやられていた感じがする。なんせ7歳のことなので大人がいっぱい出てきてからはあまり覚えていない。

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そこから実家を出るまで、家出をしたことない。(その後もない)
たぶんあれが最初で最後の家出になると思う。
家を出なければならないほどの心境になったこともない。ただ7歳のときに家出をしたという事実はその後もずっとつきまとう。家族や近所の人は「この子は家出をする子」だと、いくつになっても目を光らせていたし、幼心に有無もいわさずパトカーに押し込まれた恐怖と嫌悪感はいくつになってもつきまとっている。

たまに思い出す。そぼ降る雨の上沢通を。
木枠のガラス戸の向こうで疲弊した蛍光灯のうつろう薬屋の店内を。
ウィーンと唸る市電のモーター音を。
あの時にはきっと、横に千と千尋の顔ナシが座っていたんだなと。


そして人生とは、そうやって雨の中をとぼとぼと歩く自分なのだなと、ときに優しい人に助けられ、ときに警察のお世話になりながら、自分の行きたいところを目指す。しかし目指す先に何かがあるわけでもない。

ただこの話と決定的に違うのは、もう長田警察署に迎えに来てくれる人は誰もいないんだなと。

物心がついてから、何度か上沢通の薬屋さんを探した。ふたまわりほど上の、すらっとしたお姉さんだったのだが、店すら見つからなかった。


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