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ピタゴラスの夕日(エッセー)

「きょうも一日お疲れ様。」
あぁ、あと1分早ければ、まん丸夕日が撮れたのに。
レンズを付け替えるのにまごついていたら、またもや家島の山で太陽が欠けてしまった。
瀬戸内海は多島海。明石海峡から西側を見通すと、水平線しか見えないようで実はいろんな島影があるのがわかる。何もなく西に開けているのは、家島諸島と小豆島の間だけで、明石からするとわずか数度のアングルしかない。調べてみると、その狭いアングルに、すなわち水平線に落日するのは春では3月末から4月初めのほんの1週間ほどしかない。

夕日が真っ赤に見えるのは、必ずしも快晴の日ではない。いろんな気象条件がうまく重なったときだけ見られる現象なので、その1週間ほどの間に、真っ赤な夕日が水平線に着水するのを明石海峡から見られるのは奇跡に近い。
ところで水平線とはいったい何キロ先に見えるのだろう?帰り道に考えていた。

机上の計算によると、地球の半径 R メートル、水平線までの距離を L メートル、自分の目の高さを海抜 h メートルとすると、 R+h メートルを斜辺とした直角三角形が形成されるので、ピタゴラスの定理から
(R+h)2 = R2 x L2 (2は二乗を示す)
となる。Rが約 640万メートルと判っているので、あとは因数分解とルート計算をすると:
L は h(2R + h) の平方根となる。そうすると h が海抜2メートル前後だと L は5000メートル。仮にあべのハルカスに上って海抜 300メートル (h = 300) で計算しても L はせいぜい 62キロにしかならない。遠くに見える水平線は以外に近いのである。

ところが実際は大気があるので光が屈折するし、島には山がある。小豆島の寒霞渓あたりが海抜 d = 700 メートルだと仮に考えると、またもやピタゴラスの定理を当てはめて考えると、h = 2メートルでも、 L の値は:
 √{h(2R + h) + d(2R + d)} で 95キロと計算される。
95キロ先の海抜700メートルの島影は見えることになる。この95キロというのは微妙だ。明石海峡から小豆島まで、おそらく100キロ前後。 なるほどね、だから小豆島がかろうじて見えるのか。

運良く座れた帰り道の電車の中で、そうやってレシートの裏に多項式を展開してiPhone の電卓を叩いていた。向かい合わせのクロスシートに座っていたのは同じ会社の仲間たちなのだろう。上司の話や他愛もない噂話をしていた。神戸駅が近づくとそのうちの2人が「じゃ、きょうもお疲れ!また明日ね!」と電車を下りた。

そのなんでもない言葉が小さなガラスの破片のように心に刺さった。もう自分には「また明日ね!」と言って電車を降りていく仕事の仲間はいない。もちろんかつては面倒くせえな、帰り道まで職場の仲間と一緒なんて、などと思ったことはあった。独りが好きだから一人で仕事してるくせに。ほんとに無い物ねだりなんだから。
きょうも一日お疲れ様。小さい声で口にしてみても、余計に寂しいだけだった。


日向で語らう人々は急ぎ
また白いビルに吸い込まれる
私と鳩だけ舗道に残って
葉裏のそよぎを眺めていた

かすかに聞こえてくる地下鉄に乗り
早引けをしたいそんな午後です

ほらチャイムを鳴らし背中を叩き
もうすぐランチタイムがおわる

(松任谷由実「ランチタイムが終わる頃」より)

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