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märchと琉球行政主席・松岡政保

märchでよく展示が行われる、松岡政保って誰?何者?

それはmärchがなぜこんな住宅地の真ん中にあるかに関係しています。
märchの敷地は元々店主の家と、店主の祖父である松岡政保の家でした。
実家を建て替えてつくったので、「こんなところ」にあるお店なのです。
政保は政治家だったため、いくつかの史料が家にも残っており、お店のスペースで不定期展示を行っています。

では、政保はどんな政治家だったのか。簡単な経歴は以下の通りです。

松岡政保(まつおか せいほ)
1897(明治30)年 沖縄県国頭郡金武町に生まれる
1912(大正元)年 ハワイへ移民として移住
1925(大正14)年 トライステート工科大学卒業
1933(昭和8)年 宜野座から松岡に改正
1940(昭和15)年 沖縄製糖工場嘉手納工場長に就任
1945(昭和20)年 沖縄諮詢会(民政府)工務部長就任
1948(昭和23)年 那覇市首里にニシムイ美術村を設置
1954(昭和29)年 松岡配電創設
1964(昭和39)年 第4代琉球政府行政主席に任命
1968(昭和43)年 行政主席公選制を実現、退任
1972(昭和47)年 沖縄電力株式会社初代社長に就任
1989(平成元)年 自邸にて死去。91歳

政保は沖縄の中北部・金武町に生まれ、14歳で当時盛んだった移民として父と共にハワイへ移り住みます。勤労学生をしながらアメリカで大学を出たあとは、アメリカ本土で同じ金武町出身の妻・良子と共にラジオ修理店を営みますが、1927(大正16)年に日本へ帰国。

その後群馬県高崎市で理化学研究所に勤めていましたが、戦争へ向かう最中の日本では「宜野座」(ぎのざ)という姓が外国人に間違われ差別的な扱いも多かったため、「宜野座」から「松岡」へ改姓。
なぜ松岡だったのか、それは故郷・金武の実家の場所が松の木の生えた丘にあったから。なかなか安直だけど、響きもよくて縁起もよさそうなので、店主はとても気に入っています。現在はこの松の丘が「オランダ森」*として公園となっています。

そして、政保は後に名護の旅館から自邸(märchの敷地)に松の大木を移植しますが、今はさらに成長し輪をかけて大木になり、もはや地域のランドマーク。
これがmärchの由来にもなっています。沖縄の方言で、松のことを「マーチ」といい、松岡の松もかけて店名をマーチにしました。(松竹梅の松だし、という験担ぎも)
なので、märchのaの¨(ウムラウト)は、実は発音記号としてのウムラウトではありません。3月や行進といった「マーチ」ではなく、松という意味をもつ沖縄の「まあち(語尾あがり)」である「違い」をロゴ的に表現したものです。
(個人的にはウムラウトで「マ(メ)ーチ」と発音した方がなんとなく沖縄の発音に近いんじゃないかと思っています)

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沖縄に戻ってからの政保はアメリカで培った合理的な思考で製糖工場の技術改革などエンジニアとしての手腕を発揮し、工場長を経て民政府の工務部長となります。その後土建・配電・タクシーの事業を興し、実業家として頭角を表します。その内の配電会社「松岡配電」は後の5配電合併によってできた沖縄電力の前身でもあります。
その時に築いた実業界のパイプや、ハワイ移民であったことが後の主席任命につながったと言われています。

行政主席は、今で言うところの県知事のようなもので、当時は公選ではなく、アメリカの立法院の指名に基づいて高等弁務官が任命するという「指名制」。
これまでの主席では唯一のアメリカに精通した人物だったので、良くも悪くも「親米的」と見られていました。このことを政保本人は政治利用の「レッテル」とし、アメリカの検閲でNGをくらっていたのにもかかわらず、着任挨拶では「最後の任命主席でありたい」とポロッと言ってしまい、後に沖縄の歴史に残る名言となります。


と、さらに復帰までの色々や沖縄電力などの話もありますが、要は
戦後アメリカからの指名制だった沖縄のトップを公選にした政治家
です。

ちなみに、märchの周辺にはかつて比嘉秀平氏(初代琉球政府行政主席)が住んでいたり、稲嶺一郎氏・稲嶺恵一氏(元県知事)の旧邸もあってちょっとした政治通りなんて言われていました。近所の方曰く、この辺りの道だけ妙な一方通行なのはそのせいだとか。

政保の展示は不定期なので、常にその頃の面影があるのは松の木だけですが、ちょっとした歴史散歩をしてはいかがでしょうか。


トップ画像:米ジョンソン大統領と会談する松岡政保 1967年@ホワイトハウス(公式写真では各々姿勢正しく話している写真ですが、家に遺るものは姿勢も大きく崩して談笑している写真です)

*オランダ森:かのペリー艦隊が琉球王国時代に各地調査のために野営をしたと伝えられる場所。当時沖縄では西洋人のことを「ウランダー」と呼んでいたことから「オランダ森」となったと言われています。

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