見出し画像

魅力あるものは"説明できない"

お店でお客様にたまに聞かれる、「この商品のいいところは?」という質問

使い勝手がいい、触り心地がいい、○○に合う、シーンを選ばない など
特徴があれば使用した感想を添えて説明します。
が、たまに「フィーリング」が良いから選んだものがあります。
お店的には一応聞かれたからにはご納得いただきたいので何とか説明をしますが、こういったものをどんなに説明しても、「ここのころんとした丸みがよくて・・・」とか言葉が上滑りしていくだけ。
いくら良さを言語化しようとしても、「なんかいいんだよなぁ」としか言いようのないものがあるのです。

↟↟↟


【この先映画のちょっとネタバレありです】

先日友人に勧められて映画を見てきました。
西川美和監督の『すばらしき世界』です。
友人がこの映画をどう評価していたか、酔っ払っていて覚えてないのですが、2カ月に渡って勧めてきたので、これはよほどだなと、ようやく鑑賞。

映画を見るとだいたいいつも、かつてあった「鑑賞メーター」やtwitterなど何らかのプラットフォームに感情がまだ熱いうちに感想などを記録するのですが、今回は何がどうだとうまく言語化できない。
アメリカの映画、『パターソン』も良さを説明できないけど「なんかいい」映画。あれと同じです。
後味?ストーリー?映像表現?演技? どれをいちいち説明しても違う。
現段階ではその良さをと言われて人に伝えられる語彙力を持っていません。
猫も杓子も「言語化」と言われる時代に、説明できないはないだろう、そうなんです。でも、ほんとうに言葉にできないのです。

その中で、映像的にものすごく印象深い、対照的なシーンがあります。
序盤、服役を終えてアパートを借り、シャバでの生活を始めた三上はスーパーに行くんですが、そのあたりから映像が変わります。三上にとってみればふつうの社会生活こそふつうではない。青い白昼夢のような、その境界線に立ったような。そして万引き(結局誤認)として捕まった時にリアルに引き戻される。これまでふつうになろうとしていた穏和な姿勢や言葉選びは一気に崩れます。それまでのグラデーションのような濃度変化はすごい。
そして、後半、三上がかつて育った養護施設を尋ねるシーン。まだ昼だけど夕日に向かっていく午後のオレンジの光、庭で子供たちがサッカーをしているシーンがまるでタイムスリップしたかのような空気感を出しています。そこで三上がふと見せた笑顔は作中で一番柔らかい。子供たちと遊んだサッカーでアシストしたパスが決まってみんなで喜ぶと途端に泣き崩れます。そこで三上は「ふつうの人感」を取り戻し(多分)、劇場にいた誰もが鼻をすするのです。
この青さとオレンジは冒頭の雪の白さに対して「人間性の変化を表現する」メタファーのようでとても好きな表現でした。明確ではなく、でも誰もがもっている記憶や感情に響くような、そんな色彩表現でした。
ただし、これらはこの映画の良さの説明にはなっていません。
もっと、なんか、こう、ほら・・・。あー。

そんな作品の良さは、映像化するほうが、言語化するよりよほど容易いのかもしれません。
映画の帰りに、感情の高まりともやもやのヒントを得に、その足で本屋に向い、原作の『身分帳』を手に取りました。帯には西川監督が映画のことを書いてあって、

こんなに面白い本が絶版状態にあるとは(中略)いっそこのまま誰の目にも触れないうちに、私がこっそり映画化する!
ーと、その夜のうちに心に決めた

まさに創作のアフォーダンス。湧き上がる感情のアウトプット。

↟↟↟

北海道札幌市に、彫刻家イサム・ノグチ設計の「モエレ沼公園」という大きな公園があります。「全体をひとつの彫刻作品とする」というコンセプトの通り、丘、歩道、ガラスドームひとつとっても雄大かつ有機的で、行くと不思議な感覚に陥ります。
ざっくりいうと何もない空間なのに自分のスケールを超えてしまうその空気感に、何らかの"情報"が膨大に入ってくるのです。そして、その情報(または受ける感情)がオーバーフローを起こすのです。
これはその場にいかないと分からない独特の感覚。情報量が多いというくらいしか説明ができません。それがどういう情報かということがまず伝えられない。

当時学生だった私が感じたことは、
ああ、このオーバーフローが人をひざまずかせ神を感じ、祈ったり、
踊ったり、あるいは別の何かをつくってしまわざるを得ないのだ。

『すばらしき世界』もきっと西川監督のオーバーフロー作品
それがずっと言語化されずにさらに人をオーバーフローさせてしまう
作品の持つ底知れない魅力はそういうところかもしれません。
(特に、西川監督の作品は見てる側に判断を委ねるような描き方が多いイメージですので、余計そうなのかもしれません。)

言語化した方が魅力を失う
アートやデザインに往々にしてあるこの事象。キャプションに見る側が引っ張られて、本来感じていたはずの感動を奪ってしまう時があります。

道具の場合もサイズ感、色、手触り、、多分対峙しないとわからない。
何も説明せず、見てもらって、触ってもらって、
なんかわかんないけど、いいなぁ。
それで充分なのかもしれません。


今となっては友人がどんな感想を言っていたかが非常に気になるところです(笑)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?