嘘つきガーティの真実

丸谷才一、永川玲二、高松雄一による『ユリシーズ』(集英社文庫版II  U-Δ.n.と表記)の、第13挿話「ナウシカア」には、最初にガーティ・マクダウエルの紹介がある。いわく、

感傷的で夢想家。処女。足に障害がある。

とあるが、これを見てしまった時の私の驚愕を、以下、ジョイシアンの方々に怒られるような奇想としてメモしておく。

まず、「感傷的で夢想家」という第一印象は、例えば、教会の祈りを何度も挟みながら聖母マリアと自分を常に同一視しようとする語りや、レジー・ワイリーのために勝負ストッキングを履いてきたり、たまたま出会った紳士(ブルーム)との結婚を夢想するところから来ているのだろう。

しかし、ちょっと読むとガーティは友人のシシーを

しかし彼女は誠実そのもので、この世の誰にも負けないほどの勇気と正直な心を持ってますから、(U-Δ.422)
But she was sincerity itself, one of the bravest and truset hearts haven ever made, (U 13.278-9)

と褒め称えていたかと思えば、U-Δ.434で「大股で雄の鵞鳥みたいな走り方」「腰のあたりのきつすぎるあのスカート」「自分を見せびらかす機会があると臆面もない女」などと口を極めて罵っている。
また、レジー・ワイリーとの関係も、友人イーディの恋人だったレジーがガーティに乗り換えようとしてきたばかりなのか、勝負ストッキングで出会いを待っているのか、既に手紙をやり取りしている仲なのか、付き合っていたが幼いのでもう捨てようとしているのか、判然としない語りになっている。

こういった語りも「夢想家」であるからこそといえるのかもしれないが、「感傷的な」夢想家ではない。自らの記憶や感情をコロコロと変えてしまう夢想家、つまり自分に対する嘘つきなのだ。

次に、ガーティは「処女」と断定されている。
どこに書いてあるのか?
鬱陶しいほどに繰り返される聖母マリアとの同一視か? 結婚への少女らしい夢想か? レジーへの淡い(ようにも見える)想いか? ジョイス自身の計画書で「象徴=処女」とあるからか?
しかし直接的に処女であるとは書かれていないのではないだろうか。
と疑い始めて目につくのが次の異様な文章だ。

下着のことではガーティは恐ろしく気を使うけれど、みずみずしい十七歳の胸をときめかす夢とおののきを知っている人なら(ガーティは十七歳にもうめぐり会うことはないでしょうが)いったい誰が彼女を非難するでしょう?(U-Δ.415)
As for undies they were Gerty's chief care and who that knows the fluttering hopes and fears of sweet seventeen (though Gerty would never see seventeen again) can find it in his heart to blame her? (U 13.171-3)

()の中の、「ガーティは十七歳にもうめぐり会うことはないでしょうが」とはいったい何のことなのか。下着に十七歳の夢とおののきが共起すれば自ずと「処女喪失」を思わせるが、そこにこの文章があることで、実は、ガーティは既に十七歳とともに処女であることも通り過ぎてしまったと、はっきり(またはうっかり)告白しているのではないだろうか。
いったんガーティは非処女であると思って読めば、聖母マリアへの執着は処女への回帰願望であり、結婚への夢想は諦めと結びつき、レジーへの想いが右往左往するのも決して遂げられない願いだと知っているからだと納得がいくのではないだろうか。

最後に、「足に障害がある」だが、一読、それが明かされた時に、ああ振っている足が一本なのはそういうことか(She swung her leg more in and out in time. (U 13.557))など、いろいろなことに合点がいく。
以下で明かされる欠陥が「足の障害」ということなのだろう。

自分の体にもしあのたった一つの欠陥さえなかったらどんな競争相手だって恐れることはなかったのにドーキーの丘を降りる途中で起ったあの不運な事故の結果が人目に触れないようにと絶えず心を砕いていなければなりません。(U-Δ.444)
and but for that one shortcoming she knew she need fear no competition and that was an accident coming down Dalkey hill and she always tried to conceal it. (U13.649-51)

しかし、違和感を覚える。確かに足が不自由なのはハンデであろうが、それは conceal (隠す、秘密にする)したり、ましてや人目に触れないようにできることだろうか? 夕暮れのお仕事で一生懸命のピーピング・ブルームでさえ気がついてしまうことなのに。
もしかして、何か別の欠陥があるのではないか?
ここで、ガーティの語りが「チャールズ叔父さんの法則」として取り上げられる代表格であり、though, because などで延々と終わらない文章で「ガーティが話すであろう自由間接話法」になっている意味がはっきりする。ガーティには「言葉の障害」があるのではなかろうか。
ガーティが実際に話していると思われる場面を探すと、そこには「しばらく黙って」「一瞬、絶句し」「悲鳴を押し殺し」「神経質に咳払いし」「巧みに話題を切り替え」るような、会話を途切らせてしまう表現で埋め尽くされている。
それでは、話せはするが話すことを控えて隠そうとする「言葉の障害」とは何か?
これも、ガーティの「チャールズ叔父さんの法則」が明かしてくれる。
何回か分からないくらい頻出する✳︎1「that that」「had had」「two twos」などの、同一単語や同一発音の連続。つまり「吃音」が現れてしまっているのだ。
ガーティは、足の障害に加えて、吃音というハンデを負っているのだ。

✳︎ここからは、本気の奇想。
ここまでの想像を合わせると、ドーキーの丘で本当に起こった(非処女になり足を痛めショックで吃音となるような)こと、そしてそれはガーティにとって認め難く無意識に閉じ込められていて、ときどきその無意識の屋根裏(精神病院)に閉じこめられた友人(妻)バーサ(Bertha)・サップル(メイデン)が耳元で作り話を囁いている、そんなガーティ像が、私の目には見えてくるのである。

以上、「そんな私が病気です」篇でした。

(✳︎1)その後、ちゃんと調べたところでは繰り返しはこんな具合でした。

--Now, baby, Cissy Caffrey said. Say out big, big. I want a drink of water. (U 13.26)

Boys will be boys and our two twins were no exception to this golden rule. (U 13.41)

Only now his father kept him in in the evenings studying hard (U 13.231)

And when she put it on the waterjug to keep the shape she knew that that 
would take the shine out of some people she knew. (U 13.163)

strain her to him in all the strength of his deep passionate nature and comfort her with a long long kiss. (U 13.213-4)

Edy told him no, no and to be off now with him and she told Cissy Caffrey not to give in to him. (U 13.250)

But Cissy Caffrey told baby Boardman to look up, look up high at her finger (U 13.253)

Boys will be boys and our two twins were no exception to this golden rule. (U 13.363)

but for all that bright with hope for the reverend father Father Hughes had told them (U13.377)

--Say papa, baby. Say pa pa pa pa pa pa pa. (U 13.387)

--Haja ja ja haja. (U 13.392)

--Habaa baaaahabaaa baaaa. (U 13.498)

It was all no use soothering him with no, nono, baby, no and telling him about the geegee and where was the puffpuff but Ciss, (U 13.399-401)

more sinned against than sinning, or even, even, if he had been himself a sinner, (U 13.432-3)

he said, in this life and that that was no sin because that came from the nature of woman instituted by God, (U 13.456-7)

and Cissy Caffrey caught the two twins and she was itching to give them (U 13.492-3)

and Gerty noticed that that little hint she gave had had the desired effect (U 13.368-9)

The slight _contretemps_ claimed her attention but in two twos she set that little matter to rights. (U 13.614-5)

so she simply passed it off with consummate tact by saying that that was the benediction (U 13.618-9)

they all saw it and they all shouted to look, look, there it was and she leaned back ever so far to see the fireworks and something queer was flying through the air, a soft thing, to and fro, dark. And she saw a long Roman candle going up over the trees, up, up, and, in the tense hush, they were all breathless with excitement as it went higher and higher and she had to lean back more and more to look up after it, high, high, (U13.717-722)

before gentlemen looking and he kept on looking, looking. (U 13.732-3)

赤ん坊がらみ7箇所、花火がらみ2箇所を除くと、12箇所。long long kissも除くとして、11箇所。これが多いとみるかどうか。
ただ、赤ん坊が、Habaa baaaahabaaa baaaaなどと繰り返した直後、ガーティがものすごく苛立っているのは、自らの吃音を思っているからではないか。
なお、吃音そのものがここで表現されているというよりも吃音を匂わせている、といった方がいいかも。切れ目なく流れるガーティの内的独白は自らの無言の吃音に対する流暢な抵抗になっているようにも思える。

もう一つ、なぜ、この挿話になって突然ガーティが主人公となるのか?
考えてみると、ここまで主要な女性登場人物はモリーしかいない。他には、ドゥース嬢、ケネディ嬢、ブーリン夫人、ダン嬢、スティーヴンの妹たち程度しかいない。
対して男性は、神父から乞食、狂人。役人、政治家、ジャーナリスト、金持ちと落ちぶれた金持ち、芸術家、etcとなんでもござれ。
ジョイスはこれを意識していて、ダブリンの半分を形作る女性を出したかったのか。
あるいは、モリーが非処女の象徴として現れるのに対して、処女(私の説では処女性を奪われた非処女)を配置したかっただけなのか。


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