ヨン・フォッセ『だれか、来る』

『だれか、来る』 ヨン・フォッセ 河合純枝=訳 白水社

ニーノシュクから訳せる人は日本にはほとんどいない。これはドイツ語からの重訳だが、「著者と20年以上親交を重ねてきた」友人による翻訳だそうだ。

戯曲として読むと、詩のようにぶつ切れで台詞に感情を込めづらくかなり難渋する。わたしは半ばを過ぎたあたりで、「これは一人の台詞でも会話のように読むべきではないか」と思い始めた。テーマとも密接につながるので、読み方としては間違っていない気もする。例えば、p.106-107の「彼女」の台詞

私たちは他のみんなから逃れて来た
そして今私たちは一緒にいられる
私たちはもう
二人きりで 一緒
私とあなた
二人きりで 一緒
休みましょう 寄り添って
やっと私たちは 一緒
私とあなただけ
私とあなた
二人きりで 一緒

これを

A.私たちは他のみんなから逃れて来た
B.そして今私たちは一緒にいられる
A.私たちはもう
B.二人きりで 一緒
A.私とあなた
B.二人きりで 一緒
A.休みましょう 寄り添って
B.やっと私たちは 一緒
A.私とあなただけ
B.私とあなた
A.二人きりで 一緒

と読めば、ダイアローグのようになる。
一人の中に二人がいて、一緒と言いながら決して一緒になれない。

例えば、「彼」は「彼女」が先ほどまで「男」と座っていたベンチで「彼女」の隣に座る。P61-62

彼女 私はもたれなかった

彼  おれは見た
   この目で
   (やや和らぎ)
   確かに見た

彼女 私はしなかった

彼  奴が気に入ったのか

彼女 気に入ったわけでも 気に入らなかったわけでもない

彼  君は奴が気に入った

彼女 そう なぜか気に入った

彼  (立ち上がり、前庭に入る)
   おれはちゃんと見た
   君があそこに座っていたのを
   しっかりとこの目で

「あそこ」という指示語が直後にも使われる。
「彼」は「彼女」が座っているベンチから離れて、まだ「彼女」が座っているベンチのことを、「あそこ」と言う。「そこ」ではない。「あそこ」と言う。「彼女」に話しかけているにも関わらず。「あそこ」と言う。
(これが誤訳でないなら)「彼」は「奴」と「彼女」が座っているのを隠れて見ていた時点から話している。または、「彼」はそこにいる「彼女」にではなく、そこにいない「君」に、「彼女」が座っているベンチを「あそこ」と言う。
(これが誤訳でないなら)人称も場所も時間も曖昧な舞台が、あそこにある。

(おや? ノックの音がする)

だれか、来る

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