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『衝動』〜短編小説〜

井上「…また、会いに来てやったぞ」

俺は鉄格子の前に立って、そう言った。
檻の奥の暗闇から、鎖を引きずりながら、1人の男が少しずつこちらに向かって歩いてくる。
廊下の光が男の胸あたりまで照らすところで、立ち止まった。

男「お久しぶりです。数年振り、ですか。」
俺は眉間に皺を寄せ、ゴミを見るような目で睨んだ。

井上「お前にはさっさと消えて欲しいんだけどな」

男「おやおや、貴方から此方に来られたのでしょう。今日は記念日です、ええ、とても素晴らしい日です。」

社交的なそいつの声は甘く自分に響く。

男「今日はどんなご用件ですか。もしかして、新しい職場の楽しい話でも聞かせてくれるんですか?」

井上「そんなんじゃない、むしろ逆だ。新しい職場でも馴染めずにいる。」

男「そうでしたか、それは何故ですか?」

井上「俺が仕事が遅いのが悪いんだろうけど、上司の当たりが最近キツいんだ。」

男「ほう、あの石上という男性のことですね。そうですね、彼には少し物言いがキツイ節がある。」

井上「そうだ。だけど会社は決してブラック企業なんかじゃない。俺がミスを続けるせいで、周りからの評価もどんどん下がっていって、ついには課長にまで。」

男「わかりますよ。…貴方は十分に職務を全うしようと努めていることがね。本当はミスを犯したのは貴方ではない。」

井上「そう…なのだろうか。」

男「えぇ、そうですよ。以前までは親身になってくれていた課長が、今では貴方とお話しする時だけ、少しだけ困った様子をしていたでしょう。それは他でもない誰かの告げ口があったからですよ。」

井上「告げ口?そんな、元来、うちは社員同士は仲が良いはずで…」

男「本当にそうですか?貴方も実は気付いてるんじゃないんですか?石上という男は、いつも部下を頭ごなしに否定してくるではありませんか。それは、貴方の心が疲弊してる何よりの証拠だと思いますがねぇ?」

井上「…ッ」

俺は図星を突かれたような気がした。
以前俺は、とある事情で職を失った。
やっとのことで就いた会社だったが、俺は物覚えが悪いようで、人並みに仕事が出来るまでは時間が掛かる。新しい職場の上司、石上はミスをする度にこっぴどく説教を垂れるのだ。

男「『若いくせに、根性がない』、『主体性がない』、『自分から成長しようという意欲が感じられない』。貴方は、その言葉を真摯に受け止め過ぎているのです。」

男「昔の話をしましょう。貴方と私がまだ小さかった頃の話です。蒸し暑い夏のある日、2人で近くの河川敷で遊んでいたでしょう。日が刺すアスファルトの上に、誰かが落としたカップ麺がありました。当然、落としてしまった物は口に出来ませんからね、そこにアリが集っていたのを記憶していますか?
アリは、カップ麺を食いちぎり、隊列を成して巣へと餌を運んでいたのです。
彼らも生きることに必死な生命の一つですから。」

よく覚えている。餌場から1,2メートルくらい離れた所まで、アリがせっせと食糧を運ぶ姿。その光景を見て…

男「私はとても滑稽だと思いました。
我々人類には遠く及ばない知能の生命が、無意識下で働いていたのですから。あの隊列を成したアリは、いわば奴隷のようなものです。女王アリに餌を与える、それだけの為に生きている存在なのです。だから私はそんな存在を哀れに思いました。」

頭痛がしてきた。
俺がその光景を見た時は、偉いと感じた。
生命の神秘とか、尊い命とか、そんな大層な考えではなかったが、少なくとも俺はそれをみて感動した。

男「私はそれらを人差し指で1匹ずつ潰して行きました。そうですねぇ、前から潰すと慌てて隊列が乱れてしまいますから、後ろから1匹ずつ。私はその時、酷く高揚しました。種として、上位に立つ存在であると。1匹の虫ケラの命を、たった一本の指で左右できる存在だと。貴方もそう思うでしょう?」

井上「俺は…そんな風には…」

男「思っているはずです。わかりますよ、貴方とは長い付き合いですから。
…話を戻しましょう。石上という上司は貴方にとってどんな存在ですか?」

井上「…あの人が居なかったら、俺はもっと平和だったのかもしれない。」

なんてことを言ってしまったんだ、俺は心の底ではそんな事は思っていない。石上は俺を叱ってくれる、成長させてくれる人のはずなのに!

男「まだわかっていないようですね。貴方がそうやって真面目ぶるから、社会の模範的存在などを目指そうとするんですよ。貴方は十分に頑張っている、しかし今の社会では貴方を認めてはくれないようです。なら狂ってるのは社会ですか?貴方ですか?私は当然、社会だと思いますよ。」

やめてくれ、俺はもっと真っ当に…

男「もう良いでしょう?石上という男は、いわば現社会の模範のような男です。だけど腐った社会の模範など、貴方の目指すべきではない。むしろ排除すべき存在ですよ。…貴方の生きやすいように、私が道を舗装します。今までだってそうしてきたんですから、ね。」

俺は心のどこかで、こいつの言う事を肯定した。
そんな自分が憎くて堪らない。
だけど自分の力ではどうにも打開出来そうもない。
鉄格子の扉が開いた。
男が近づいてくる。
暗闇で隠れていた男の上半身が光で照らされた。
そこにあったのは、なんとも醜い笑みを浮かべた俺の顔だった。

井上「あぁ、また俺は衝動に駆られるんだ。」


「お疲れ様です、石上さん。
今日、退勤したら一杯どうですか?
私が奢りますから、付き合ってくださいよ。
積もり積もった話もありますし、勿論、私も貴方に伝えなきゃ行けないこともありますし…ね。」

私は鞄からはみ出たロープをそっとしまい込んだ。

『衝動』終


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