見れない映画1:知らない映画



日記を書こうと思ったこと

https://mubi.com/en/jp/showing

日記のようなものを書こうと思って、最近気になったこと、読んだ本のことなどを書いていたら「愉しみ」の話と「子ども」の話になった。二つの話でなく、一つの話のことだ。
誰にでもその人の「愉しみ」と呼ぶべき精神的生活があるだろう。音楽を聴くのでも本を読むのでも料理をするのでも語学を学ぶのでもスポーツをするのでもゲームをするのでも、必ずしもそれは文化的なものでもなくて、ポルノを見るのでも嗜好品を味わうのでもギャンブルをするのでも、必ずしもそれは趣味でもなくて、掃除でも裁縫でも洗濯のときの柔軟剤を選ぶのでもよく。別に人それぞれでいいのだけれど、私はそれが映画だった。
私は趣味の映画批評家だ。映画俳優や映画監督のインタビューをしたり、映画批評を書いたり、この前は映画の脚本を書いてみる機会もあった。ただ、いずれもそれで食い扶持を得ているということはなく、ただ見た映画について10代の頃からどこかに感想のメモを溜めてきた。そういう人間だった。それが今までのようにはもはや映画を見続けることはできないだろうと思った。それがこれの発端である。

MUBIのこと

確かコロナの自粛期間なので2020年のことだと思う。当時の勤め先で一ヶ月の自宅自粛が決まり、今後の仕事に対するやんわりとした不安を抱えながらも当面の生活費の心配をよそに近所の公園でピクニックする子連れの家族など眺めながら過ごした4月。夜は毎日、MUBIで日に2本も3本も国内外の珍しい映画を見るようになった。MUBIというストリーミングサービスが、映画好きの友人たちの間でとにかく知らない映画、珍しい映画が見られるツールとして話題になって何年かした頃だ。MUBIは確か、映画好きのトルコ人起業家がロンドンで王家衛の『花様年華』を見ようとしたら見られなくて起業した会社というようなものだったと思う。多少の英語さえできればアート映画からドキュメンタリーまでNetflixやAmazonプライムでは見られないどこから出てきたのか得体の知れないマイナーな映画と幾つも出会うことができるちょっと珍しい体験を提供してくれるツールとして日本でも流行り出した。
映画好きにとって「ちょっと珍しい体験」つまり、ある種の映画好きにとって前情報のほとんどない映画に出会うということはある程度困難なのだ。新作映画の上映・配信情報をなんとなくチェックしたり、ありし日のレンタルビデオ屋をふらふら彷徨いたりする習慣が身についているような人たちは見たことはないにしてもいくつかの映画の存在自体は知っている。しかしただそれは現代の日本でアクセスしやすい映画にただ、囲まれているのにすぎないのであり、そのアクセスの圏外にはもっと珍しい映画がたくさんある。それ相応に能動的になってときには慣れない語学を駆使しつつ違法か合法かもわからないサイトをサーフィンでもしていくとたどりつくことのできるいくつかのナイジェリア映画や、カザフスタン映画や、オーストラリア映画というのはこの世に存在する。世界にはそういう映画がごまんとあるし、そういう映画のほうが実際にはずっと多いはずなのだ。流通網に私よりずっと詳しい友人で、私のほとんど知らない映画の話ばかりしている人というのもいる。そこで思うのが、映画が好きでそれが私の精神生活になっているとはいえ、いつのまに私は自分の映画の「アクセス圏内」に囲い込まれてしまったのだろう、ということだ。MUBIは、「圏外」にアクセスできるお手軽ツールとして私たちの生活にやってきた。
 したいのはMUBIの話ではない。年間250本も映画を見ることができたのはもう学生時代の話で、初めて就職したときには仕事から帰るといつもくたくたで映画も見れずに寝てしまって週末に映画を見にいく体力もなくなって一つ目の会社はそれでやめた。紆余曲折を経て上京して、それなりに働きながら、映画も観ながら暮らしてきて、引っ越して、家族ができて、生活習慣も変わってといううちに結局また映画を見る本数はめっきり減ってしまった。そうした生活にぽっかりと災害のように、災害として?空いた1ヶ月の自粛期間、毎日MUBIにすすめられるままにいつどこで作られたかも知れない(サイトにはちゃんと紹介されている)得体の知れない映画を見る楽しみを学生以来に味わった。久しぶりに思い出したのは、映画を見る喜びというのは必ずしも好きな映画、面白い映画を見ることではなく、少なくともそれだけではなくて、こうして無数の映画に価値観をぐらぐら揺さぶられることだったはずだ。少なくとも自分にとっては「知らない映画」と出会ってそれを見ることが大きな喜びであったはずだ。それが叶わなくなったのはいつからだろう。映画を見る時間がなくなってからか、知らない映画に触れる機会が減ってからか、話題の新作映画を楽しめないことが増えてからか。いろいろ理由は思い浮かぶけれど、どうしたらこの喜びをまた持ち続けられるか、あの日から四年ばかり考えたり忘れたりした。

インベスターZのこと

 昔は暇で時間もあったし、「知らない映画」をたくさん見ることができた。それが、それこそが「愉しみ」であった。というのは、私の話だ。最近思うのは、別に「知らない映画」など他の人間は見たくないのではないかということだ。他の人間というのは誰かということになるのだけれど、そういうことをやんわりと考えながら他の人間に出会えない不幸がこの世にあるが、SNSを流れてきたある投稿を借りてこのやんわりについて考えてみる。まずはこの漫画を。



「大抵の人は面白くない映画を観ていても席を立つことはない……なぜか。それはチケットを買ってしまったから。折角お金を払ったのだからせめて最後まで観よう。途中で出たら損をすると思っているからだ。退屈でなんの楽しみも得られない全て無駄な時間を過ごしているにもかかわらず。
投資もこれに当てはまる。100万円で買った株が50万円まで下がったとする……。50万円損した状態で「終わり」にするのが我慢できず、売らずに持ち続けてしまう。含み損が確定しないうちは「まだ損はしていない」と思いこみがちだが50万まで下がった株は、どうあがいても50万なのだ。しかも売らずに株で持っているとその50万を使えないことになる。これはつまらない映画をつまらないと思いながら最後まで観てしまうことと同じ。どちらも何の価値もないものにしがみついていることになるんだ。」

https://x.com/investorz_mita/status/1785504430030475277

少し前にX(旧:Twitter)で話題になった三田紀房氏の『インベスターZ』という漫画。面白くない映画を最後まで見続けることを、投資の姿勢に喩えている。映画というよりも映画を通じた、投資の寓意というところだ。「投資もこれに当てはまる」のところで、「え、本当に?」と思ってしまう。疑問に思うのは「投資に当てはまる」の部分ではなく、もちろん「そもそも映画はこれにあてはまるの?」ということ。それで、調べてみると私よりもずっと辛辣な「ツッコミ」が大量に出てくる。普段であればそこで、なんだ、よくあるネットのミームか、とそのまま数秒もせぬうちに忘れてしまうところ。そこで、今回はもう少し考えてみたい。というのは、たしかに「文化活動を投資のように考える」という価値観はそこまでリアリティのないものではないかもしれないからだ。こうして漫画としてちょっと胸を借りるつもりで個人的な思考の土台にさせていただこう。
あらためて。この学生たちが新入部員に課している損切りができるかの試験というのは、つまり「つまらない映画を何分で途中退席できるか」というゲームは、誰もがつまらないと思える一本の映画の存在を前提にしている。そして、それが投資のゲームのアナロジーとして機能するためには、映画の面白さ、満足といった個人的な指標を他の人にも共有可能な客観的な基準、つまりお金=数値で勘定できると見做しているということだ。そういう例えが自体がナンセンスだと言ってしまえば、それまでだが、いやむしろ、本来数値化すべきでないものごとにまで、そうした数値の価値観が侵食してきているというのが現代的な価値観ではないのか。ニュースで「コスパ」とか「タイパ」とかささやかれる言葉についてもう少し真に受けて考えてみるというのが、
舟津昌平『Z世代化する社会』(東洋経済新報社)には、「結果主義」と「費用主義」という言葉が対比として登場する。端的にいうと、どんな仕事も結果が伴わなければ意味がないとするのが、「結果主義」だとするならば、結果が伴うとしてもそれまでにかけるコストが高ければしないほうがいいというのが「費用主義」なのだという。カッコ付きの「最近の若者」に蔓延しているのが、この後者の費用がかかるならなにもしない極端な「費用主義」的思考で、それは若者に限った話ではないそうだ。


今後のこと


MUBIに戻る。全く前情報のなかった映画を見て、予期しない面白さに出会うこと。それが私にとっての至上の映画体験であったことは先に述べた。それは、前情報のない映画を探してきてハズレも含めながらたくさん鑑賞するということをしなければ辿り着けない、費用主義者が聞いたらゾッとするような娯楽だろう。私も学生頃ならいざ知らず、大人になって働いて家族もできて、今ならたくさんの見たい映画の中から厳選してどうしても見たいものを見ざるを得ない生活を送らざるを得ない。一つにはこうして働きながらでも豊かな鑑賞体験ができるのかという問題があり、もう一つにはコスパ優先の「最近の若者」はそういう楽しみをそもそも望んでいないのではないか。という疑惑があるといったときに「最近の若者」とは一体誰だろうということに疑問は尽きない。当面は以下の三つについてぽつぽつと考えてみる。

・面白い映画と予期しない映画。どちらが豊かな映画体験か
・働きながらでも、効率よく豊かな鑑賞体験をすることはできるのか。
・予期せぬ映画体験はどのように可能か。あるいはつまらない映画、誰も想定しない映画はどのように観客と出会うのか

この疑問に基づいて当面、気になった本をいくつか読んで感想を書いてみようと思う。

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