ルサンチカ『SO LONG GOODBYE』(12/10  14:00〜の回)

――あの子は、演劇を続けるらしいよ。
学生の頃の終わりだった。後輩の子と、また別の後輩の子の話をしていた。学生の頃が終わってもあの子は演劇を続けるらしい。特別裕福な家の生れというわけでもないし、大手の事務所に入るわけでもない。ただ、このまま京都に残って俳優を続けるらしい。なにしろ彼女の親は両親ともが俳優なのだから、そういうふうにして生計を立てていく算段だって、イメージだってついている。お金ではない。ことはリアリティの問題なのだ。彼女にも彼女の家族にもそれはそれなりにリアルで可能な選択肢だった。要するにはそういうことだった。もう演劇をやらなくなった私に昔、そういう知人がいた。

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 演出の河井朗くんに誘われて見たルサンチカ『SO LONG GOODBYE』について。
 御茶ノ水の会場は、劇場というよりもレッスンスタジオに似ていて、舞台上と客席の区別もはっきりしない、遮光もされていないので窓から差し込む昼下がりの陽光に照らされたフローリングの半分を一〇脚にも満たない頼りない黒い椅子が埋めていた。
 客席でないほうのもう半分に一脚の椅子、壁際に置かれた兎のぬいぐるみ、小さなラジカセ。椅子に腰掛けたダンサー、斎藤綾子さんらしき女性が話し始めるこの公演は、ダンスでも演劇でもなくただただ彼女の自己紹介であると紹介するのが望ましいだろう。その姓、斉藤の「斉」という字は、「氏」と、「Y」ではないけれどYの限りなく近い「Y」のようなものと、「糸」の上半分に似たなにかが入っていて、その下は「了」を囲むようにしてできているというのが正しい戸籍上の表記らしいけれど、そういう字は簡単に予測変換でも出ないから、一番平易な「タテタテヨコヨコ」の「斉」の字を使っている、とそんなような名前についての詳しい説明に始まり、好きな色、好きな食べ物、嫌いな食べ物、アレルギー、ととりとめもなく自己紹介らしい自己紹介が続く。そしてそれはそういうものの例に漏れず、彼女の職業の題がいずれ話の大半を占めるようになる。
 両親共がダンサーである家に生まれた彼女は、いつ自分が初めてダンスを始めたという記憶もさだかではなく、大方彼女の母親も妊婦であった頃から彼女を抱えて踊っていたらしいし、まともに立って歩けもしない頃からレッスンスタジオに据え置かれていたらしい。それで、彼女はほとんど自然とダンサーになりたい、ダンサーになるのだと思うようになった。というか、ただそうであるに飽き足らず、彼女のリアリティはそもそも世の中の全ての人がダンサーであるという状況から、どうやら世の中には踊らない人というのもいるらしいということが、物心がつき始める頃にわかり始めるという有様であったようなのだ。
 かと思えば、同じ回で鑑賞をしていた「いぬのせなか座」の山本さんが、再構成されたインタビューのようだと言っていたけれど、確かに一見、徒然なるままに自身の経験を喋り続ける斉藤さんには、ただ徒然なるままにそうしているのではないと思わせる「構成的」な瞬間が訪れる。大人になってから彼女は、彼女の俳優だかダンサーだかの友人がちょっと大きな事故に巻き込まれたという少しショッキングなニュースを、その俳優だかダンサーだかの身元について「(無職)」と表記した新聞の紙面で知ることになる。ダンサーであることに限らず、お芝居をしたり、スタッフとして上演に関わる人らと馴染みの深い暮らしをしてきたはずの彼女にとってそれは、少女が経験する一つの挫折の物語であるかのようなのだ。一見衒いのない自己紹介めいた公演は、いかにも作劇的なエピソードトークひとつで少女の世界をひっくり返す。どうやらこの世にはダンスをしない人もいるらしいどころか、世の中のほとんど人が日常的にダンスをするようなことはなく、ダンスだけをしている人、お芝居だけをしている人というのは、ともすれば「(無職)」とみなされることさえしばしばだ。いやむしろ、この世界ではそちらのごうが現実なのだ。そこで彼女は、無邪気か無邪気そうな演技で、「自営業」という職業欄向きの肩書きを得たことを喜んで見せたりもする。

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 前は演劇をしていたけれど、今は演劇をしていない私にとって、こちら側の方がいくらか「リアル」な現実であったことは言うまでもない(言うまでもないだろうか?)。
私は、学生の頃に演劇をやっていて、それなりに真剣にやっていたし、楽しんでもいたけれど、それがなにか職業になるとか、どうやって生計を立てるとかは考えていなくて、考えていなかったせいでそういう生活は自然消滅した。今でも本を読んだり、映画を見たり、こういうもうのを書いたり、そういうことをしている友人や家族と何時間も話したりすることが生活の多くを占めているという意味で「表現活動」が生活の重しになっているし、なっているかまたは、「表現」にしがみついているとさえ言えるのかもしれないけれど、演劇は見なくなった。見ないと決めているわけでもなく、こうして誘われたら行くのだけど、自分からは見なくなっていて、なぜそうなったかには自分なりに回答があり、ほとんど演出として稽古場に行くことを楽しみに演劇に関わっていた私は自分の稽古場に行く機会がなくなって、観客としてもあまり劇を見なくなった。こういう受け身で呑気な学生であった者にはきっとよくあることで、学生でなくなって働かなければならなくなり、どうやって生計を立てていくかの問題ばかりが頭をもたげてくると、演劇を続けるような余地がなくなった、というようなことを書きそうになったが、それほど大それたことでもなくて、私は単に映画とか読書とかに、演劇に注いでいた時間を譲った。
 今、自己紹介と言われれば、間違いなくこういうものの話をするだろう。職業の話は自分と関係ないことなのでしない。

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 斉藤さんは「自己表現」という言葉を使わなかった。これが「自己紹介」であることが前提ならそういうことはいちいち言わなくていいことかもしれない。きっと誰も斉藤さんに対して「ダンス」は私的な趣味だ、などとは言わないだろう。だとしても、それは公的な「職業」なのか、という問題がその友人の事故の一件から宙吊りにされている。
 本公演で、私が最も好きだったエピソードがトトロの話だ。斉藤さんは「ダンスとはトトロのようなものだと思う」と言った。子どものときにだけ会えるトトロのように、彼女にもダンスに会える瞬間があるらしい。それは彼女だけでなく、観客である彼女もそういうものを目の当たりにする時があるそうだ。自身、演者である彼女には、何人も「二週間に一回は見たい俳優」という人がいるらしい。こういうのを「推し」というのかもしれないけれど、よく知らない。他の人から自分もそう思われるようになれたらいいな、と彼女が話していたとするのは、私の理解の中で再構成した話ではあるものの、斉藤さんの立派な芸術論だと思った。「トトロとしてのダンス」は、彼女とともにあるのでも、彼女の中にあるのでもなく、彼女の外にある。それは美学であり、信仰の問題だと感じられた。①私的な表現=自分は誰であるか、②公的な職業=自分の役割は何であるか、だとするならば③トトロとしてのダンスの話は、彼女の信仰の告白であると思えた。

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コンテンポラリーダンスとはなんなのか。斉藤さんは、料理のたとえで説明しようとしていたが、むしろトトロの部分を伝えてほしいと私は思った。
劇中に再三、登場するエピソードがある。美容室で「お仕事、なにされてるんですか?」と聞かれたとき、なんと答えようか、という話だ。雑談だ。職業なんて誰でもしているのだから、話の糸口にちょうどいいだろうという社会的前提(②)、でも別に就職面接でも、職務質問でもないし、利害関係があるわけじゃない、束の間を気まずく過ごさないために知り合うための雑談なのだという個人的前提(③)がある、でも重たいことを言えば、ちゃんと相手に伝えたいのは、私が何を信じているかだ。社会的な要請ではない、私という存在は何に従事しているかという問題。それこそが自己紹介の本義ではないのか(③)。
コンテンポラリーダンスとはなんなのか。そんなこと、言葉では説明できないので、踊った方が早いのにと思いつつ、ここでは踊れないというふりをする彼女を見るとき、そのまるで踊るのを禁じられたダンサーの身体表現のような饒舌がとても愛しく思えた。
そこが美容室でも、彼女はダンスを続けるらしいのだ。

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