『ケイコ目を澄ませて』短評

 耳の聞こえないプロボクサー小河恵子を育てた荒川ジムの会長に取材する中盤のシークエンスに、おそらくこの映画唯一のジャンプカットがあって、はっとする。実際の撮影現場がどうかは知らないが、ばっちりキマったショット、ショットで組み上がるこの映画に俳優の演技が仕上がるのを待つゆらぎに満ちたシークエンスはほとんど似つかわしくない。飾り気のない、たとえば「ボクシングは闘う意志がなくなったら続けられないんだ」というような台詞を、短く厳しい枠の中で過不足なくものにすることができるのはたしかにプロの俳優にしかできない仕事だろう。恵子の母が撮ったピントの定まらない試合写真が生真面目な確信犯性を必然的に帯びるほど、遊びさえ厳しく制御されたこの映画にジャンプカットの即興生がきわだって浮き上がる。
 鏡、ホワイトボード、リングのロープ、罫線、線路、窓。その定められた枠の中にどの被写体も、どの音も収まる様に設られたよく片付いた玄関のごとき映画冒頭の20分は、ずいぶんとよくできた演出や脚本の人工性ではなく、むしろいかに同時代を生きる私たちがこうした「枠」に囲まれて生きているかということと、ほとんど詩人のようにその枠と枠同士のつくるリズムばかりを意識させるし、詩人の如くゲームのルールに積極的に囚われる映画の表現は険しい減量で身体を定め、ミットを打ちステップを踏む勝つためにミスを許されないボクサーたちの身体の厳しい正しさに接近する。そのようにしてこの映画の手の込んだ人工性は、よくできた物語の虚構性であるよりもむしろ、禁欲的な表現者の日記の様なものに仕上がるのだ。
 そして映画の語りは鍛錬された身体たちの触れ合いにラッキーはないという結論へといたる。偶然を排除したこの映画が三つの試合で構成されていると気づくとき、映画作家三宅唱のひとつの思想に触れたように感じられる。二つ目の試合は恵子の判定勝ち、三つ目の試合は恵子のK.O.負け。そしてナレーションだけで語られる恵子のデビュー戦は彼女のK.O.勝ちである。勝つことではじまったものに、いつまでも次こそ勝たねばというプレッシャーがのしかかるのならば、プレッシャーごとひらりとかわして未来をもう一度見せるために、映画は若いボクサーに希望へと開かれた敗北を最後に与えてみせる。そういえば『君の鳥はうたえる』もさわやかに振られて取り残される男の話で、今あの映画は彼の未来に希望を開いたとさえ思える。三宅の描く「希望」には同時代の他の監督とは違って「偶然」への「想像」というよりもむしろ期待が固く閉ざされている。
 河川敷で作業服に身を包んだ女性が恵子に声を掛ける。自分の顔を指差し、つい最近自分を打ちまかしたプロボクサーであると彼女は気づかせる。「ボクシングは闘う意志がなくなったら続けられないんだ。そうでなければ相手に失礼だし、危ないだろ」。ジムを畳むことに決めた会長が、ボクシングにラッキーがないことを語ると映画は彼女がこのまま競技を引退してしまうことをほのめかすものの、なんとかしてその未来を覆そうと策を講じる。対戦相手の作業着と、恵子のメイド服と、松本のスーツと、林の警備制服が再戦までのきっと続くだろう彼ら彼女らの生活を、それまで生き残りまた出会うだろう予感を作り出す。
 ただ正直、三宅の決して楽にはしてくれない未来への希望の描き方に少々疲れてしまった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?