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音楽の遍歴②-ロックからフュージョンへ

皆さんこんにちは。
音楽の遍歴シリーズの第2回は高校入学から大学卒業までの6年間を薄れつつある記憶を辿りながら書いていきます。


中学生時代にビートルズからハードロックを辿り幅を広げていきました。そして高校入学以降、更にその幅は広がっていきます。

・はじめてのバンド結成
高校へ入学しGrecoのストラトキャスターモデルを手に入れ毎日のようにDeep PurpleやCharの練習に明け暮れました。
文化祭へ向けクラスメイトとバンドも組み演奏したなぁ。
演奏したのははっぴいえんど「はいからはくち」、その頃流行っていたチープトリック(Cheap Trick)「Surrender」…残念ながら後は覚えてないです。

・国内ロックとレスポール
今で言うと”邦ロック”ですね。その頃、Charとともに好きだったのが、竹田和夫率いるCREATION。プロレスラー、ザ・ファンクスの入場曲としても有名なスピニングトーホールドを演奏するバンドです。
日比谷の野音へライブを見に行きジーパンにサインももらいました。そして自分もレスポールを使いたい!と夢見ていました。

最も聴きまくったアルバムの1枚
「ピュア・エレクトリック・ソウル」

 ↑ スピニング・トー・ホールドのシングル盤音源がありました

当時、既にGibsonの1958年‐59年のレスポールスタンダードはスーパープレミアムでとてつもない値段が付いていましたし、そもそも高校生が買おうなどという発想はありませんでした。そしてその頃、日本では58-59年のレスポールを忠実に模倣したモデルがいくつかのメーカーから格安で販売されていました。ぼくは高校2年の夏休みに毎日必死でバイトをし、その中から何度も下見を重ねたESP-Navigatorの玉目模様のレスポールモデルを買いました。10万という価格は高校生のぼくにとってそれはそれはとてつもなく大きな買い物でした。
…あれから40年、昔の憧れが忘れられず2012年に学生以来バンドを再開し、今では夢にまで見たGibsonのCustom Shopの本物のレスポールスタンダードが家にあります。とは言え写真をはじめてからは忙しくて全然触っていませんが…。

我が家のギターたち
左から
Gibson LesPaul custum shop
Fender Mustang
一番右のMartin D28はヨメさんの誕生日にプレゼントしたもの

・海外ミュージシャンのLIVEへ
その頃からちょっとだけ大人の仲間入りをした気になって海外ミュージシャンのライブにも行くようになりました。とは言え相変わらずお金はありませんのでお小遣いを切り詰めて年にせいぜい1-2回程度だったと思います。
当時はYouTubeもなければMVもほとんどない。動く映像を見るとなるとLIVEへ行くしかなかったのです。
覚えているのは

・クイーン(Queen)
・ジェフベック(Jeff Beck)
・ヴァンヘイレン(Van Halen)
・フォリナー(Foreigner)
・レインボー(Rainbow)

…残念ながら後は思い出せません。 
クイーンはフレディ・マーキュリー存命時の絶頂期です。ナマで「ボヘミアン・ラプソディ」を聴いた時は感激のあまり気絶しそうになりました。
レインボー(Rainbow)は大学の軽音に入部後だったはずです。当時の海外ミュージシャンのライブはだいたい武道館がでしたね。他に大人数を収容できる会場が無かったんでしょう。
ヴァン・ヘイレンだけは初来日だったからなのか中野サンプラザでした。追加の当日券で女の子たちにもみくちゃにされながら観たいちばん辛いライブでした。
国内ミュージシャンではCharを見に行った回数がいちばん多かったと思います。
次にCREATIONですね。親友と浅草まで年越しロックなんかも行ったな。

・プログレッシブロックへの目覚め
高校2年から今でも親交のある親友の影響でプログレを聴くようになりました。
・King Crimson(キングクリムゾン)
・YES(イエス)
・Pink Floyd(ピンクフロイド)

などです。
そこから派生組の
・U.K(ユーケー)
・BRUFORD(ブラフォード)
・CAMEL(キャメル)

なども聴きました。
中でもキングクリムゾンは神的存在。
クリムゾンを中心に各バンドへ移籍したり広がっていったりしていました。
多感な高校生が一種、宗教にハマるような聴き方をしていたと思います。

最後のトリオ構成による伝説的なアルバム「Red」
高校時代にこれを聴いてしまったことはいいのか悪いのか…
その後、メンバーを変えて再結成する

 ↑ ラストの曲「Starless」これを多感な高校時代に部屋を暗くして聴いていたってのは良かったのか悪かったのか

・フュージョンの流行
高校2年あたりからクロスオーバー(その後フュージョンと呼ばれるようになった)というジャンルが流行りだしました。何がクロスオーバーなのかというとJAZZとROCKの融合らしい。日本ではサディスティック・ミカ・バンド出身の高中正義が大人気でYAMAHAのSGというギターもかなり売れましたね。その後、日本のフュージョンを代表するCASIOPEA(カシオペア)がデビュー、大学入学後は六本木のPIT INNや渋谷のライブハウスへ何度も通いました。

高中正義の「TAKANAKA」
正確にはフュージョンではなくブラジル音楽を目指したアルバム
ヤマハのSGに持ち帰る前はヴィンテージのストラトを使っていた
この音がたまらなくいい!

 ↑ 1曲目のSummer Breeze リフもかっこいいんですがギターソロ、そしてその音がたまりません

日本を代表するフュージョンバンド
フュージョンの傑作LIVE盤
今聴いても全く古さを感じさせないのは凄い

 ↑ 圧巻のDomino Line 中盤に出てくるドミノ倒しと言われた掛け合いはみんな夢中で聴いた

・大学軽音楽部
少し脱線しますが、音楽遍歴を書く上で避けて通れないことなのでここに記しておきます。
高校2年の時あまりの成績の悪さに担任に呼ばれ指導を受けましたが「おれミュージシャンになるって決めてるんでいいんです」などと抜かして先生にため息をつかせていました。
ところが何を思ったのか理由は忘れてしまいましたが無理だという結論に行きつき、何とか大学へ行かせてください…と親に拝み倒した。とは言え遊んでばかりいたのでいきなり勉強ができるようになる筈もなく、受験は何とかかんとか補欠で小さな大学に入れてもらえました。
そして入学早々、迷うことなく軽音楽部へ入部をしました。
文系の大学の授業は必須科目以外は相当にゆるく、ほぼ部活のために大学へ行っていたようなものです。
そしてはじめて3年生の先輩たちの演奏を聴き如何に自分の考えが甘かったかを痛感することになります。
とにかく上手いんです。次元が違うレベルで。
にも拘らず当時、一番大きかったヤマハ主催のコンテストの予選すら通らないんです。今なら当たり前に理解できることが当時はなにせ子供だったのでわかりませんでした。

さて、そんな大学時代に聴いた音楽は聴くものが変わった…という訳ではなく、今まで聴いてきたものにプラスで聴くようになったというのが正しいと思います。

…とまぁこうして振り返るとつくづくいい時代に生まれたなぁと思います。
大学卒業後、東京の会社へ就職しましたがなんと赴任地は札幌。そして雪国で新しい音楽との出会いも広がりました。 
そのお話はまたの機会に。

それではまたお会いしましょう。

#グレコ #ギブソン #CREATION #クリエイション #キングクリムゾン #高中正義 #カシオペア


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