積木くずし

 子供が夢中になる積み木は、積み重ねるためにあるのか、崩すためにあるのか。何を作るかは、我々の独創性にかかっている。その組み合わせは無限にあるはずなのに、反復するうちに固定観念が出来上がり、同じようなものばかり作ってしまう。
 世の中にはどうしようもできないことが山ほどある。社会のシステムは簡単には変えられないし、起きてしまったことは受け入れるしかない。そんなことに頭を悩ませたり、悔やんだりしても、何も変わらない。時間の浪費だろう。しかし、われわれは諦めることを当たり前にしていないだろうか。
 日本で「積木くずし」という不良少女のドラマが80年代にブームになった。学校制度がレールの上を歩き列を乱さないという没個性を助長しかねない「平均の美学」で子供たちを抑圧し、そのため子供たちが積み上げられたものを壊し非行に走る行為は、現代社会でも犯罪の中で現れる。
 自分にとってどうでもいいことが、他の人には大切なことだったりすることがある。言い換えれば、われわれは物差しで測れないものを排除しているにすぎない。しかし、興味がないことは、果たして自分にとって不必要なことで、意味のないことなのか。
 知人にもらった本のページを何気なくめくってみると、思わぬ発見や共感できることが書いてあって、「忙しいから」という都合のいい言い訳をせずにもっと早く読んでおけばよかったと反省する。それは食わず嫌いの食べ物が好物になったり、嫌いな色の服を着てみたら周りの人から似合うと褒められたりするのと似ている。自分は自分のことを分かっているようで、実は分かっていないものだ。
 パンデミックになって気付いたことは、コロナ前までの生活習慣や固定概念は、時間と余裕があれば、積み木を崩すように、思ったより簡単に変えられるということだ。実際に付き合い半分で飲んでいた酒は完全にやめられたし、できっこないと思っていた定時の食事も、今では午前9時半の朝食と午後5時半の夕食を毎日規則正しく食べられるようになった。コロナ渦だからこそ、できることがたくさんある。今こそ、これまで作り上げてきた積み木を崩す絶好のチャンスではないか。

羅府新報(Vol.33,704/2021年2月17日号)『磁針』にて掲載

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