性犯罪厳罰化、性交同意年齢引き上げへの日弁連の反対姿勢は、法治国家の大原則に反する

現代的な法治国家の大前提は、基本的人権の保証と公正な契約行為の保証にある。

20世紀に、たとえば我が国日本やドイツの例から人類が学んだように、それらが保証されない場合、社会は人権侵害の装置になる。

また、他国においても国家がこのために、女性その他様々な人々に対する人権侵害の装置と化していた。

1. そもそも人間複数がかかわる行動には、当事者各自の有効な同意が必要。つまり「Yes means yes」が万事の基本。


人間には自由意志や自我があるので当然のことだ。それは文明社会と法治国家の大原則である。

これは法治国家で安心して人が活動し、社会が栄えるために最低限、必要な条件だ。最低限の人間扱いとも言える。

明確かつ有効な同意を得ずに他人の身体や自由をどうこうしようとするのは基本的人権の侵害で、通常、重罪となる。

同意/合意の有効性をできるだけ確保するためには、支配を排除し、対等に話し合える前提の確保が必要である。

たとえば性交同意年齢を成人年齢と同じとしつつ、前後2歳は認め、双方が同意年齢未満の件は児童虐待として介入し保護し、しかし親や兄、教師、上司など支配的立場の人物は除外するなどだ。

そもそも未成年の身体をどうこうするのは大枠では児童虐待

であり、搾取の歴史に鑑みれば、たとえ親でも適切な範囲に限って許されることなので、親きょうだいは当然、加害者たりうる。犯罪に問うべきケースではなくとも介入を要する(学校関係者による指導など)

ちなみに、児童虐待の問題である以上は少年犯罪として扱われるケースは他の児童虐待問題と同様に加害者も未成年かつ搾取的な場合に限られ、一部の心配は全く当たらない。

良き支配者などいない

支配関係には忖度や保身がはたらくので、上は正しい情報を得られず、通常は判断を誤る。

つまり伝統的社会では王や男性は判断を誤ってばかりだが、目下や女性が尻拭いしてきただけだ。

そのために身分制の固定や宗教的迷信やニセ科学で「上は正しい、男は正しい」とおしえてきた。当たり前だが、日本も日本が参考にした欧州諸国も近代初期は帝政という厳しい身分社会だったから、法律も運用も、大枠でいまだその大前提を捨てきれていない。

憲法が平等を謳って以降、大枠から見直さなければならなかったものが細かい改正(たとえば男性も被害者に想定するなど)で放置されてきただけだ。

女性から稼ぎや地位を奪って、男性と対等に発言できないようにしよう。我々の支配が彼女らを守っているのである。」などの20世紀的な考えは、対等な話し合いのためには、一切捨てなければならない。

思い上がりの好例として1970年の日弁連会長発言などがあり、あれは末代までの恥さらしだ。

彼の発言は検索すれば出てくる。

とはいえ洋の東西、昔の政治や哲学の基本は迷信にもとづく身分制と男尊女卑の堅持であったから、彼に限らず、戦後日本においても政財官いずれも、長らく

女性が俺たち男性と対等に口がきけないようにしよう
女性が俺たち男性に黙って隷属するしかないようにしよう

と、大の男たちが丁寧に丁寧に、様々な女性差別に血道を上げていたのが現実である。

1970-80年代の不況期、男女雇用機会均等法が骨抜きにされたあげく、国家の役割たる弱者保護を、ほとんど女性の人間らしい人生を奪って丸投げすることになった経緯を見れば分かりやすい。

日本の市民に法知識と教育が必要であるなら、何をおいてもまずは身体の自由だろう。

そして法治国家に必要な自由と対等さと公正な契約をもとめる意識、

そして自他を搾取するものへの鋭敏な感覚、

搾取の上に成り立つ現状の認識だろう。

もとはギリシャ・ローマへの復古で始まった近現代の法制度だ。

当初は帝国市民的な男性だけが人間扱いされ、女性や若年者や植民地人など他の人類が資源扱いだったことは言うまでもない。

人間扱いという大原則の対象外に女性などを置くため、たとえば骨相学などのニセ科学が援用された。

日本の性犯罪関連法制と今回の日弁連の意見はこの慣習を無批判に継ぐもので、主に女性や年少者が占める被害者側の意思表示を引き続き一顧だにせず、引き続き想定対象が主に男性であろう加害者の意思だけを重視する非文明的な前提にたつものである。


法治国家において重大な例外にも関わらず、100年前の疑似科学ほどの論拠すらない、集団心理の恐ろしさ


法治国家の大原則と人間社会の信頼に反する、よりによって義務教育レベルの欠落にも関わらず専門家たちが気づかないのは、集団の異常心理以外に考えにくい。歴史上も現代でも、残念なことに年配の男性の多い集団がしばしばみせてきた集団ヒステリーの典型といえる様相だ。


日本人が信じている「科学的な男女差」もほぼ同様の集団ヒステリーの産物であることは改めて強調したい。


日本人、とくに中高年男性が公的な場で男性観や女性観を語るたびに世界中から嘲笑されることからも分かるとおり、今の科学的な常識では、性別は、身体的な区分と男尊女卑の歴史以外はほぼナンセンスである

おそらく40以上の中高年の「男らしさこそが文明や社会の原動力であり女性や子供を守るものである。」「女性は優秀なオスの遺伝子を残すためにいる。」「暴力、とくに女性への暴力も男らしさの産物。すべてテストステロンの恩恵であり弊害なので女は黙って耐えろ、むしろ喜ぶはず。男なら、やるのが普通」的な発想

は迷信で、もはや通用しない。

むしろ「バカで性格悪い上に、集団ヒステリーに弱いんですね」と全世界の中学生から笑われかねない。

今の科学では女性が生き物の基本である以上、知的精神的にも女性が有利とわかっている。つまり、長らく女性の意思表示を無効とする根拠とされた「男性が知性や精神で女性より優れること」がまず、ない。可能性すらない。

男性が「男性であるがゆえに」女性に性暴力を振るう可能性などもない。

法律家も女性が半数を占めるのが自然であり、世界的にそうなりつつある。

近代の法の大前提だった男性の優秀性が1990年代に科学によって完全に否定されて以降、単に女性を搾取していただけだと確定した以降の世代では、他の先進国では女性の法律家が若手の半数を占めるようになった。


言い換えれば先進国の法律家の40代以上や、

日本の法律家のほぼ半数は職務に耐えうる能力を持たず、女性蔑視に依存して生きている。


男性法律家のうち有能なほうの約半数と対等な適性を持つ女性は各世代にほぼ同数いたと考えるのが妥当だが、彼女らを人間扱いから除外する社会において永遠に失われ、最低賃金でパートでもして夫に仕え、死んでゆくのだろう。日本社会はそのような女性に守られている。

なんとも膨大な損失であるが、


これからも性暴力を一方的なお気持ちでふるい放題、年少者を搾取し放題の法を維持すれば、引き続き女性を人間の例外扱いできるし、女性や若手を潰せるし、それを

「守ってやっている」

とまで主張できるのだから

主に無能な成人男性には魅力なのだろう。


一般論として、そういう支配の継続以外に今回の案の合理性はない。

おおよそ21世紀の人間の発想とは思えない。


残念なことに古い男性社会は、主に理不尽な要素で構成される。

というのも男らしさは理不尽さと理不尽に耐える能力であり(性差がほぼ無意味でも体力に余裕があるし、地位があればさらに理不尽になれる)、そもそも合理性と相容れない

マッチョのつどいし筋肉強化合宿のルール作成でも多分男らしい理不尽さが行きすぎないように気をつけるべきだし、老若男女のみなさんのルール設定なら更に理不尽を言っていないか、理不尽なくせに合理的なフリをしていないか自戒すべきだ。

このへんは男性学の1年目テキスト序文くらいな常識だと思う。たとえば子供の頃に筆者が読んだ男性学の本では序文でたしかもと元帥か大将みたいな人がそういうことを書いていた。

今回の場合、

ただひたすら成人男性への共感だけを求め、問題解決は目下や女性に丸投げする姿勢。
昔の男性社会にありがちな、感覚重視でエビデンス皆無の感覚論。
感情を持ち続ける能力こそが理性や判断に不可欠だと知る現代人とは異なり、実はパニックで感情がマヒしているだけの自分を「冷静で論理的」と思い込みし、異論を「感情的」と否定する中世貴族的な思い上がり
しかも、自分らの非合理性や感覚論を「女性の問題」と思い込んでしまう異常心理。


それらを今回すべて日弁連の人々がみせたことは驚きを禁じ得ない。


これしきで驚くなんて、いつから日本を文明国だと思いこんでたのかって話ですが。


反面、文明社会の潮流とは


近代初期は差別で保証されなかった人間扱いが、まず旧支配層から一般男性へ広がった。さらに一般女性や若年者へも広げよう、という流れが文明の流れである。

が、日弁連の発想は、成人男性の意思表示は重視するが年少者や女性の意思表示を軽視する、近代社会にかつてありふれていた支配を肯定し搾取を制度化した段階でストップしている。

日弁連なのに世界観が中世の貴族並み

例の記事を読んだが、特に取材と引用部分は、中世貴族なりきりか、そのような妄想でも持たないと恥ずかしくてかけた物ではない。

おそらく大前提が中世の貴族さながら

自分の支配は良い支配で、貴様らを守ってきたのである。我々の支配への反発や異論は異常である。貴様らは感情的で無知で卑しく、我々は冷静で知的であり、愚民は我々の教えで教化されるべきである。

くらいなやつだ。

それを、一般的に女性に守られている人間社会でも特に女性差別に守られてきた仏教圏や儒教圏のひとつ日本において、男性がいう悲喜劇たるや。

そして女性がそんな痴呆的な意見を代弁する悲喜劇たるや。

そもそも法治国家においてもその文化や産業においても、成人、特に男性が女性虐待や児童虐待に依存してきた歴史的経緯くらい、義務教育で踏まえようよ。

これまで法治国家の大原則に反してでも人口の半数以上を人間扱いから除外して潰してきたのだから、門外漢には理解しにくい「高度な理屈」が弄されてきたのはわかる。

しかし法治国家の大原則とくらべれば、人権侵害の時代の小理屈など一蹴して差し支えない。

人間扱いということは意思表示の重視と有効性の吟味、そして極力対等な人間関係の構築であり、帝国市民的な男性だけを守ってきた時代の小理屈などは法治国家の大原則の前では一蹴して良い。

人権無視のためにする屁理屈には価値などない。

近代の「女性や未成年に対する普通」は奴隷制や植民地支配のように、二度と繰り返してはならない愚行だ。このことは、国際社会の共通認識である。

昨年でしたか、国連事務総長も国際女性デーでそのように挨拶していましたね。

その20世紀の忌むべき汚点を、日弁連は今回、無知蒙昧の極みであるが、積極的に21世紀へ持ち込もう、維持しようとしている。

おおよそ21世紀の国際社会のメンバーにふさわしいとは思えない。