「ずれとは、豊かさである」

…要素やグラデーションが多いのだから」


その文章に出合って、「そうか、相容れないものとは豊かさだったのか」と合点がいった。

このずれは違和感とか、「ん?」と一泊呼吸をおくような反応とも呼べる。

10代の頃はこのずれを感知する度、目の前にとてつもなく高いピンクとも紫ともつかぬ色の壁が見えてしんどかった。この壁の正体を暴かなくては。高さと厚みと奥行きを測らなくては。解体するだけの力を蓄えて突破しなくては。その労力を想像するだけで身体が引きずり下ろされてぐったりした感じがした。


放っておく。

その選択肢を当時の私は単純に知らなかった。今なら「そうかー、そんなふうに感じているんだねー」と独りごちて歩みを進める。立ち止まったり、ずれをまじまじと見ることはあっても、違和感を覚えた自分に矢を刺して血を流すまで痛めつけることはしない。


違和感は地層やプレートのようだと思う。

ずれや色の違いは渦中にはわからない。時間が経つと一枚の絵のような模様が浮かんでくる。どうやってその色が生まれたのか、成分、含有物、水分量、そういったものを測ることができるのは絵が完成した後のことだ。

人と人とのやりとりは、縦糸と横糸のようだとかつて思っていた。自分の言ったことが、自分の望んだように解釈されるとは限らない。その相手の反応がさらなる反応を生み、選択肢が目の前に現れ、次の行動につながる。そして後から振り返ると、一枚の大きな絵ができあがっている。

ずれがなければ、単色の一枚の布だ。模様も濃淡も奥行きもない。何が起こったのか、手がかりも痕跡も一切残らない。

違和感をもつことは幸せだ。自分と相手が確かにそこにいたという証になる。


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