【フラッシュフィクション】「職場のルール」

業務時間中にやってはいけないことは三つある。一つ、タバコを吸うこと。二つ、インターネットでエロサイトを見ること。三つ、高橋祐介と話すこと。
破った者は次の査定で減給される。
タバコを吸ってはいけないのには合理的な理由がある。タバコの臭いは試験に差し障る。エロサイトを見てはいけないことにも合理的な理由がある。興奮したときに出るドーパミンが試験に差し障る。
私たちの職場ではありとあらゆる試験を実施しており(主には食品の安全だとか、おもちゃに使われる化学物質を子供が舐めても大丈夫かなどだが)、自分の体から放出される物質が試験に影響を及ばさないように気を配らなければならないのだ。
高橋祐介と話してはいけないことには合理的な理由はない。その理由は分からない。今となってはこのルールについては憶測の理由が語られるだけである。
私がはじめてこのルールを破るまで、職場の誰もが高橋祐介とは話したことはなかった。彼はいつもコンピュータの前に座っていて、上司から送られてくる試験のリストをこなしていただけだった。試験のリストをこなすのは私たちも同様で、私たちと高橋祐介の業務上の違いは同僚と馬鹿話をすることが許されているかどうかだけだった。。
高橋祐介は明らかに他のものよりも業務効率がよく、高橋祐介と話してはいけないルールは彼の業務効率を落とさないためであるという噂がまことしやかにささやかれた。
なぜ高橋祐介だけがそのような状況に置かれなければいけないのか、それについては誰も疑問を呈すことはしなかった。
私が彼と話すはめになったことには合理的な理由はない。しかし私はそれが不合理だとも思っていない。
その日私は、洗濯機の試験のための実験室にいて、衣服からほつれ出る微小な繊維質が環境に与える影響を試験していた。
私が実際に手を動かすわけではなく、コンピュータの画面でロボットに手順を指定していただけだが、それを私は「私が試験していた」と言うことにしている。どうしてわざわざそんなことを言うかというと、同僚達の中に大学で哲学を中途半端に学んだ奴がいて、試験をすることの主体性とやらの議論を吹っかけられるので、私はその議論に巻き込まれないように前置きをするくせがついてしまったからだ。
私が回転する洗濯機を見守り(試験というのはいつもそうだが)退屈をしていると、実験室のドアに誰かがぶつかる音がした。
目を向けると高橋祐介がしなだれるようにドアにもたれかかり、そのまま実験室へと倒れてきた。
私の頭の中には高橋祐介とは話してはいけないというルールが依然としてあったのでどうしようか戸惑ったが、目の前で死なれても試験に差し障る気がしたので介抱することにした。一方で、なるべく話さないようにして解決できないかとも頭の片隅にはあった。
私がかけよって腰をかがめると、高橋祐介は立ちあがろうとしているのか腕を伸ばして椅子に手をかけた。しかしキャスター付きの椅子は動いてしまい、高橋祐介は腕をずるっと滑らせ、椅子は洗濯機の方へと吹き飛んでぶつかった。洗濯機の振動に影響があったらやり直しだぞ、と思いながらも私は高橋祐介の脇の下に腕を差し込み立ち上がるのを手伝った。
そのとき、私たちが高橋祐介と話すのは禁じられているが、高橋祐介自身が他の同僚に話しかけるのは禁止されているのだろうか、という疑問が頭の中に浮かんだ。
その直後高橋祐介は口を開いた。
「ようやく試験が終わったんだ」
はて、どういう意味なのだろうか。返答しなければ話したことにはならないはずだと私は考え、黙ることにした。
「私の声、どう思う?」
よく聞けば、はじめて聴く高橋祐介の声は野太くはっきりとしていた。
「久しぶりに声を出したらびっくりして倒れてしまったんだ。子供向けの、声が変わるガスのおもちゃの試験だったんだよ。五年間つらかった。もう俺と話しても大丈夫だよ。ガスの長期的な使用で危険性がないか調べてたんだ。途中で声を出さないというとんでもない条件の試験でね。あのルールは俺がちゃんと試験をするために作るために作ったんだから」
私はまだ飲み込めずに唖然としている。
「それは大変な試験でしたね」
「ほんとに大変な試験だったさ。俺と話しても減給されないから安心しな」
高橋祐介はなんだか嬉しそうに言った。
「あと、俺が作ったルールはもうふたつあって、たばこを吸ってはいけない、というのとエロサイトを見てはいけない、というやつなんだが、あれは当時の嫌いな同僚がいつも仕事中にサボってたから作ったんだ」
合理的な理由があると思っていたルールには理由がなく、逆に合理的な理由がないと思っていたルールには理由があったということか、と私は思った。

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