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掘りおこす人々

 現場への道のりが長く感じる。風が強すぎて目に砂が入ったのか涙が出てきて止まらない。泣いていると思われないようにそっと軍手で目を拭った。

 長靴で歩くと普通の靴で歩くより疲れて土踏まずが凝ってくるのがわかる。吹き荒ぶ風で頭が吹っ飛びそうだ。肩先まで伸びた髪に頬を思いきり叩かれて急いで帽子で押さえた。このまま何日かこの風が続くかと思うとうんざりする。花粉症の田辺くんはくしゃみを連発している。長靴の中に何か入っているようで落ち着かない。早く現場に着いて長靴を脱いでひっくり返したい。小石一つなのに頭の中が石でいっぱいになる。

 だいぶ菜の花が咲いてますね、と背の高い市役所職員は呑気に話しているが彼が同期から参考にともらった資料をすぐさまゴミ箱に突っ込んでいるのを見たことがある私は彼にはできるだけ関わらないようにしている。
 田辺くんと私は会計年度任用職員という一年契約だ。私は掘り出す前の地面の下の様子を想像してみる。すぐにも貝層が現れ、縄文時代の土器や石器が見えるだろうか。
「すぐに貝層が見つかるといいですね」
「貝層って何ですか」今回から初めて参加する富田さんが聞く。眼鏡をかけて髪の毛を黒いゴムで一つにまとめている。詳しくは聞いていないがたぶん二十代だろう。
「要は縄文人のゴミ捨て場ですよ」田辺くんは鼻をかみながら面倒くさそうに言う。顔立ちが整っているのに言い方はいつも粗雑なので職員は口の端をぎゅっと結んで何か言いたげな表情になり
「そんな言い方はないでしょう、人骨や土器なども入っているのですから。おそらく縄文人はもっと優しい気持ちですべてのものを送る場と考えていたのでしょう」とすぐにマウントを取るように後を引きとった。富田さんは真面目に頷いている。

 早く石器か何か出てくるといい。私は石が好きらしく、いくらだるくても石器が出ると疲れが吹き飛ぶほど嬉しい。昨日も海に行って海岸礫を観察してきた。石を眺めていると非常に気分がいい。
 以前田辺くんはなぜここに来たのかと聞かれた時、ここは日本の東も西も両方見られる中間地点だから、と答えていた。土器を見ると確かに東からの影響を受けた模様があったり西からの影響を受けたものがあったりする。自分もここは真ん中のような気がしている。
 砂浜にある石ころなんて全部同じだと興味がない人は思うだろうが、砂岩、泥岩、チャート、片麻岩、花崗岩などさまざまな石が波に洗われている。それらの大きさや形を観察していた。

「あ、これすごく質のいいチャートだ」歩いている時でもみんな下を向いて何か探している。石鏃が見つかる時もある。剥離がたくさんあるような丁寧な作りの石鏃や黒曜石を見つけた時はとても嬉しい。逆に他人が見つけた時は何か、負けたような気分になるから不思議だ。宝探しゲームのように我々は道の上を丁寧に見ていく。
「どれどれ」と田辺くんは私の石を取り上げる。
「ちょっと」と私は手を伸ばして取り返そうとする。彼は小走りになり、得意げな顔で右手を突き上げている。
「ふざけてないで、真面目に歩きましょう」職員は顔の前に指を当ててメガネを曇らせながら私たちに注意する。

 田辺君は私の元カレである。こちらの市に採用されてから付き合うことになった。どちらかと言うと田辺くんはぐんぐん押してくるタイプだ。三十代半ばにして強烈な押しと毎日の褒め言葉をもらうことでめまいを起こしそうだった。
 ほどなくして私は彼のアパートに行くことになるのだが、初めて部屋に入った時はあらゆる時代の遺跡の報告書をあれこれ私に見せながら、縄文人のセックスは現代よりもっとおおらかであっただろうとコーヒーを飲みながら推測していた。
「大体の年格好があって、嫌な感じでなければしてたでしょうね」
 確かに縄文時代というのは今より平均寿命もかなり短く、たぶん狩りにも行かなくてはならないだろうし、いつ会えるか分からない感じは今よりあっただろう。
 なんとなくそのまま流れでベッドに行きそうになったのだが、その時は自分もいろいろ質問事項があったので、ただ縄文時代について語り、夜だいぶ遅くなってから家まで送ってもらった。
「またね」と私は言った。「じゃあまた」と彼も言った。その一ヵ月後位の私の誕生日にプレゼントのネックレスをつけてくれた後で彼は告白し、付き合うことになったのだが、縄文人からしたら気が遠くなるほど悠長な恋愛には違いない。彼とは勉強で忙しいこともあり、会う回数は付き合ってからも付き合う前もそんなに変わらなかった。

 それで、なんで別れたんだっけ、と私は思い返してみる。なんとなく、としか言いようがないのだが、結婚の話が出たときに彼が契約社員であり不安定な立場にあると言うことを話していて、その時何も考えずに私は
「じゃあ無理だね」とつぶやき、その後どうしようもない沈黙が生まれた。
「あの、別に田辺くんが無理とかそういうことではなくて、自分も不安定だし。でも別に男の人が稼ぐだけでなくていいと思うから、その場合は自分が資格生かして正規雇用を目指してもいいし」と言いながらいかにもその言葉がよそよそしいと感じた。私は石が好きなのだ。
「結婚して、子供できたらどうするつもりですか」
「正社員なら育休あるでしょ。今の契約だとないけど」
「そういうの、絵空事って言うんじゃないんですか」
 その会話が彼にはよほどこたえたらしく、しばらく目も合わない日々が続き、自分も年齢的に考えてズルズルと付き合っているのも良くないような気がしてそのまま会わなくなった。
 彼と久しぶりに勇気を出して目を合わせようと思って彼の方を向くと富田さんが彼をじっと見ていることに気がついた。レーザーポインターみたいに、それは一直線に彼の方へ向かっている。

 貝層があるとそこに生活の痕跡があったと言うことが考えられる。焼けた石の炉跡や柱の跡となる穴などもそうだが、やはり掘っていて土の中に白くパラパラと貝が混じり始めた時のワクワクは特別なものがある。土器も石器も骨や貝の道具やアクセサリーも全部ここから出てくる。もちろん人や犬も出る。
 今回の場所は比較的容易に貝層が見つかりそうだった。事前のボーリング調査では地表面のすぐ下から徐々に貝の混じり方が多くなってきているのが分かった。
「始めますよ」と職員が声をかける。田辺くんがすっと軍手をはめて昨日までに設定してあったビニール紐を張った四角の中に立つ。掘っている最中は皆無口になる。せっせと掘り続ける。ほどなくして汗が背中や胸を伝いはじめ、最初のうちは出てくるビニールのかけらや瓶の蓋などを取り除きながら掘り進めていく。
「あの、課長がインスタ用に何かいいものの写真を送ってくださいって」職員が携帯をいじりながら言う。みんなはもうやり始めているので半ば職員の言葉を聞かなかったふりをしている。そんなにいいものなんて最初から出るわけがない。
「またビニール紐ぐらいしか出てこないですよ」と田辺くんが混ぜ返し、私たちは笑った。

 そういえば先週にも田辺くんと一緒にいた。二人きりでいたわけではないが、石の研究会と言うのが定期的に開催されており、それに参加していた。みんなで海や河原や山の露頭付近など歩く。
 海に隆起した岩はチャートでできているらしい。このあたりの岩はほとんどチャートで、その上に川から流れてきた石や砂が肉としてついていると言う印象だ。ストーンハンマーでチャート以外の石を選んで叩いてみる。
 露頭の石を叩き割っていて破片で指を切ってしまったこともある。叩き割ってみてまで石の中を見たいと言うのはちょっと常軌を逸しているかもしれないが、割ってみないとわからないものもある。
 見た目は全部同じような石に見えても割ってみると泥岩だったり流紋岩だったりする。泥岩は均質でつぶつぶが見えない。砂岩より細かい。濃飛流紋岩は中につぶつぶしたものが入っている。ねずみ色から黒色に近い石と言ってしまえば全部同じなのだが、中身を見てみないと由来や性質がわからないというのが面白い。

 「掘ってるとき何考えてるんですか」急に脳内のキラキラした鉱物の中に声が入ってきたので驚いた。
「いろいろ。富田さんは」と私は逆に聞いてみた。
「私はきついなぁとかそんな感じです。まだ一日目ですけど」と言いながら田辺くんの方を見た。
「考古学やってる人って、何か取り付かれているっていうか熱量がすごいですよね」
「確かに、端から見たら何やってるんだろうってことばかりしてるよね」田辺くんが石鏃を見つけたらしく、インスタインスタと騒いでいる。
「インスタに載せたところで、いいねを押す人は関係者ばかりかもしれませんね。博物館とか、文化財課とかでフォローしあったりして」
「なんかキラキラしたもの載せたらうけるかなと思ったけど」
「普通の人は石ころか石鏃かどうかも多分わかりませんよ」
「そうかなぁ」

 ちょっと見てください、と田辺くんが私のほうに腕を突き出すと、私と彼の間に富田さんがすっと入ってきたので驚いた。やはり彼女は彼のことが気にいっているのだ。私は悟られないように斜めに体を抜くようにして後ろから石鏃を見た。こういう時一番困る。発掘メンバーが入れ替わっても女子は一度は必ず田辺君に興味を示す。それが嫌でやめようと思ったくらいだ。でも考古学好きが勝っていまだに居残っている。自分が集中できれば田辺くんがどういう状態にあっても考古学が続けられるはずだ。まだまだ彼にはかなわないことが多いし、ここにいることで自分の中身が張り詰めて向上していけるような気がしている。
「黒曜石です」黒曜石はこの辺では取れない。長野県あたりか、もっと遠くまで行って採って来なくてはならない。そこまでして欲しかったのだ。その気持ちを想像してみて、少しわかるような気もする。
「田辺さんと付き合ってるんですか」富田さんがいきなり聞いたのでグエッと喉から変な音がしてしまった。
「どうして」
「だって田辺くんの視線が常にこっち向いてますよ」
「見てるの富田さんの方じゃない」と私は答えた。
「ごまかさないでください、何かある感じしますよ」
「そんなことないって」ここまで聞くって事はやっぱり富田さんは好きなのだろう。もはや田辺くんに渡された黒曜石などどうでもよくなった様子で彼女はまた彼を目で追っている。私はと言えば黒曜石の形をまだ仔細に眺めている。割と丁寧に作ってある。希少な石材だからか、上手い人が作ったからか小さくてよくできている。

 自分も作ってみたくて北海道から黒曜石を入手し、研究会で良さそうな石やらゴーグルやらいろいろ取り揃えてやってみたことがある。鹿の角で作ることもできるらしいのでそれも興味があったがとりあえず石で石を割ると言うのをやってみたかった。
 まずこの辺でよく採取できるチャートでやってみた。これはなかなか手強かった。とりあえず割れない。割れたと思ったら思ってもみない方向と角度で割れた。これではだめだ。材料として使えないほど変な格好で割れてしまったので、しばらく石の剥離した面に指を当てて途方に暮れる。遺跡からも出来損ないの石鏃がたくさん出てくるし、剥片に至っては信じられないほど拾えるので縄文人だってそれは失敗したりしたのだろう。筋っぽくない均質なチャートを選んだつもりだったのに、これはうまくいかなかった。上手な人ならばここから立て直せるだろうが、自分には無理そうだ。諦めて次に黒燿石に行くことにした。
 黒曜石を割った感触はほとんどガラスと一緒だった。バリンバリンと割れていく。端の方を叩くとリング状に波のような打撃の痕跡が見えた。
 頭の奥がしんとなり、かつてないほどの集中力で私は自分の手の中の光る石を眺めた。その時黒曜石の破片が飛び、自分の肩先に何かが乗っかる感触があった。
「刺さらなくてよかったですね」と特に動揺もなく隣の人は言い、そっと手を伸ばして破片をとってくれた。
「刺さったら、死ぬかな」私の声は届かなかったらしく私の疑問には答える人がいなかった。見本に置いてあった石鏃の尖った先を指先に押し付けてみた。エイの尾棘を魚を捕る道具として使っていたらしいから、毒と言う考え方はあったに違いない。もし万が一鏃に毒が塗ってあったとしても、何千年もの歳月の間にすっかり取れているだろうけれども。
 破片が乗っていた鎖骨の辺りがジリジリとした。考古学の熱って感染るものなのかもしれない。熱を持っている人が周りにいると自分もだんだんそのことばかり考えるようになる。

 「休憩です」の声に驚いて我に帰った。今日はあまり進んでいない。午後から頑張ろうと黒曜石を大事に小さなビニール袋に入れ、濡れても破れないユポ紙に詳しく書いて一緒に中に入れた。

 休憩場所の公民館のトイレに行くまでの道に犬がいる。柵から顔を出して遊んでいるの発掘前に事前調査に行った時見つけた。その時は不思議そうな顔をして全く吠えなかった。そっと近づいていくと鼻先を近づけて匂いを嗅いでいる。しばらくするとまた犬小屋に戻っていった。これからよろしくお願いします、と私は犬の後ろ姿に向かってつぶやいた。

 次の日は雨が降った。きれいに遺物を洗う。それぞれバケツの中でブラシを使って汚れを落としていく。そっと当てるように、遺物を傷つけないように土を落とす。掘ってる最中には気がつかなかった模様に気がついたりする。
 富田さんは今日少し元気がない。前髪をヘアアイロンで巻いている時おでこを火傷してしまったと言う。みんなが見ようとしたが彼女は前髪を下ろして絶対に見せようとしない。田辺くんは元気にみんなの周りをうろうろして洗い方などを教えている。
 私が黒曜石を一心に洗っていると、
「みんな黒曜石を有り難がりますけど、自分にとっては他のいろんな石と一緒です」
「だってきれいじゃん」
「サヌカイトだってきれいですよ」と言って立ち去る。
彼がなんと言おうと私は黒曜石が好きだ。キラキラしたものは縄文人だってきっと好きだったに違いない。今日は雨だが日がさしていれば日にかざしてその透明な石の輝くところを鑑賞しただろう。
 それに黒曜石は一様ではない。ガラス質で透明感があるところは共通しているが、ビール瓶が割れたものにそっくりな茶色いものから墨を流した水を凍らせたようなもの、真っ黒いものなどいろいろある。この辺でよく見つかるのは氷のように透明の中に少しだけ黒が混じるもので土の中にあっても光るのですぐにわかる。アイスコーヒーの中の氷みたいだ。

 洗いながら海を歩いた時のことを思い出す。研究会のメンバーはゴツゴツした海の岩の上も平気で歩いていく。不思議とそういう時は怖さを感じない。海を覗き込むと緑色岩が透明感のある水の中に沈んでいる。縄文人は海の方まで石の調達に来ただろうか。ようやく到着した平場で緑色変岩を叩いてみた。パリパリとはがれるように手ごたえなく割れていく。海の中を覗き込んでいると誰かが「海の中まで観察したら、水中考古学になっちゃうよ」と笑った。石の緑と空の青さが同時に目に入って自分の気持ちがどんどん上向いていくのがわかった。

 晴れたが足元はぐちゃぐちゃしている。公民館のトイレを汚すわけにはいかないので、長靴を履き替えるためのサンダルも発掘道具に付け加える。犬は遠くから私たちの様子を見ている。ブルーシートに水が溜まっているのでみんなで持ち上げて遠くに捨てた。休憩中に犬を見に行く。だいぶ慣れたのかすぐに尻尾を振り、柵の中から精一杯鼻を出している。縄文人が飼っていた犬も柴犬を小さくしたような感じだったらしい。この間発掘した犬の骨は本当に細くて小さかった。こんな大きさで猪を追いかけたり噛み付いたりできるんだろうかと思ったものだ。
 以前別の遺跡で出てきた犬は丁寧に埋葬されていた。貝塚の中で人間と犬はほぼ完全な形で出てくる。猪や鹿が骨を割られてバラバラで出てくるのとは対照的だ。骨を想像していたせいか犬はちょっと頭を引っ込めると、犬小屋に戻ってしまった。
 トイレから戻ると「人骨出ましたよ」と言われた。慌てて見に行くと太い骨が出ていた。大腿骨に見える。
「寛骨か頭が出れば大体性別わかるんですけどね」と誰かが呟いた。
真っ白な貝とともに骨が次々と見つかる。縄文人は何を思って白い貝の中に死者を埋葬したのだろう。まさか何千年も後にその貝殻と共に人骨が溶けることなく保存されて残るとは思ってもいなかっただろう。人と犬が寄り添うように出てくることもある。その断面に貝が敷き詰められみっしりと層状になっているのを見たとき自分はゴミ捨て場などとは感じず何かの入り口のように感じた。例えば遠い未来に蘇るためのトンネル。ブラックホールのような、何もかも吸い込んでまた始まる、終わりの入り口。

 人骨の取り上げを開始した。われわれは標本と見比べながらせっせと記録を取り、その他のトレンチは掘り下げていく。土の断面はケーキみたいに何層にも重なっている。白い部分はクリームでなく貝層だ。犬はその間私たちをじっと見守ってくれている。やはり犬は昔も今も我々の友達だ。

 「就職試験に行ってきます」と頭の上から声がした。田辺くんだった。
「新潟です」なんとなく予想では今と変わらず近くの市町村に行くのかと思っていた。この場所にいれば日本の中央で両方を見渡せるんじゃないのと言おうとして飲み込んだ。
「いってらっしゃい」みんな耳をそばだてている。人骨が出ているので彼も後ろ髪引かれているのか革靴のまままだウロウロしている。
「間に合えば帰りにも寄ります」
「頑張ってください」
私だけ取り残された気がしていつものように身が入らない。富田さんは今日もいろいろ質問しながら仕事してくれているが自分は上の空だ。またトイレに行って犬のところにしゃがみ込む。何か気配を感じるのか心配そうに見ている。私は一体何をしているんだろう。縄文人だったらもう人生の終盤かもしれない。四十に近いのだから、下手するともう死んでいるかも。いつか正規職員になろうと思って勉強していた矢先に親の介護で試験勉強を休んでいるうちタイミングを逃した。いや、それは言い訳かもしれない。
 一生懸命頑張っていれば何とか食べるには困らないが、企業でも市役所でもちゃんと正規にならないと考古学は続けていけないかもしれない。その場しのぎで綱渡りのように仕事が続いていたが非正規雇用はいつ切れてもおかしくない。

 夕方になると発掘している横を小学生が通り過ぎていく。
「バイバーイ」我々も疲れた体を一瞬起こしてバイバーイと元気に手を振る。
「あれカナちゃんのお母さんに似てない」と小学生の1人が私を指差している。違いますよーと小さな声で返事をする。富田さんが
「いつの間にお子さんいるんですか」と私を茶化した。縄文人であればとっくになんとなく男と出会い、何度か出産して寛骨に妊娠痕をつけていたであろう。人骨の勉強をしていて、女性の寛骨に痕跡がつくと聞いた時は衝撃だった。妊娠出産と言うのは骨をくぼませるほど負荷がかかるものらしい。
 現代に生きる自分であっても、そういう選択肢もあったのかもしれない。漠然と自分が普通に結婚し子供を育てているところを想像してみたが、うまくいかなかった。私は再び人骨の上に屈みこんだ。

 一週間して人骨の取り上げが終わった。その他のトレンチも掘り終わりそうなので発掘ももう終わりだ。午後から雨が降ると言うので急いで作業をする。田辺くんはまだ試験の結果が出ていない。今日は朝から普通に現場に出ている。みんなで頑張ったので昼ぐらいまでで終わりそうだ。
 雨がパラついてきたので昼はいつものように外ではなく車の中で弁当を食べた。一人で車の中で食べるとしゃべらないのであっという間に食べ終わってしまった。春だと言うのに今日は寒くて指先が凍えている。まだお腹が空いているので魚肉ソーセージを向いて食べることにした。薄いピンク色のソーセージを取り出すと慌てていたのか先端が折れて落ちてしまったが構わずに食べる。お腹が空きすぎて何も考えられない。無意識に手が動いて口に入れ、二本続けて食べた。
 人心地ついて自分の膝を見ると魚肉ソーセージが指の先っぽに見えてぎょっとした。骨は見なれているが生々しいものは見なれていない。

 午後になると片付けを始めた。犬は一声も発せず私たちを見ている。最後に目の前を通ったがいつもよりよそよそしい。名前を呼ぼうとして、名前を知らないことに気がついた。
 車に荷物や遺物を積み込み終えるとついに雨が本降りになってきた。
「今日で終われてよかったね」とみんなが言う。人骨が出ているときに雨が降ったりしては丁寧に養生しなければいけないしあまり長い間そうしておくわけにもいかない。犬は首だけこっちに向けて我々の車を目で追っている。

 疲れのせいかみんなうとうとし始める。犬の名前は何だったのだろうか。縄文人も発掘のたびみんな適当に名前をつけているが、そして最終的には1号とか2号とか言っているが、縄文時代はどうだったのだろう。名前のわかっている縄文人はいないから何とも言えないが、きっとその時代にも名前はあっただろう。
「名前くらいは、呼び合っただろう」と私はつぶやいた。
「何か言いました?」と運転している職員が聞き返した。
「いいえ、なんでもないです」と私は答えた。後ろに積んだ、人骨を入れたコンテナが車の揺れに合わせてガタガタと鳴っている。

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