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仕事なら訳ない食事介助が育児だととてつもなくつらいのはなぜなのか

いよいよ小さな暴君となりつつある息子は11ヶ月。
9ヶ月の頃にはつかみ食べが全盛期で、もともとの食欲旺盛さもあり、食器に文字通り突っ込んでいく有様。
ある程度覚悟していたので「よしきた!」とおやきやお好み焼きなど、フィンガーフードに。
それも落ち着いてきた昨今、今度は「自分で食べたい!」とスプーンを握って食べる仕草を始めた。

とってもよろこばしい!
・・・けれど
正直、毎日毎食付き合う身としては、あちこち飛ばすし、こぼすし、食器ごと落とすし、しっちゃかめっちゃか。
2人目の余裕で基本は笑い飛ばせるけれど、それでもやっぱり、結構げっそり。

ここでふと思ったこと。
なんで自分の子どもに対しては、ご飯の時間がこんなにしんどいのだろう。

わたしはSTという職業柄、高齢者に対して仕事で食事介助をすることが度々ある。
中には我慢がきかず、怒鳴りつけてくる人もいます。口をぎゅっと閉じて拒否する人もいる。
まずいまずいと連呼する人もいるし、ものすごい勢いで掻き込んでしまいさらにご飯粒を盛大に撒き散らしながらむせたり。

でも、これに対してわたしは、「もういい加減にしてよ」、「じゃあもう食べないで」とは言わない。
中にはちょっとムッとすることはあっても食べてくれなくてつらいとか、ご飯が飛び散って悲しいとか、そんなことはない。

あらゆるケアについて、同僚たちからリハビリ職、看護師、介護士問わず言うのが「仕事だからできる」という言葉。
わたしも同感だなぁとおもってきたが、それはどうしてなのか。。。

報酬と、それに伴った社会的な責任が自分を冷静にさせる

やはり大きな理由のひとつは、「仕事」という割り切りがあるだろう。
「仕事」だから、やるべき作業はきっちりやりますよ、という責任感。
社会の一員として働いている以上、イライラしていては体裁が悪い。
「仕事」であればお給料という報酬があるし、逆に報酬がある以上こなすのが道理というもの。

あくまでも「仕事場での作業」に対する「大切な我が子を守り育てる」という重大任務

では。自宅で子どもにご飯を食べさせるのに、「仕事」と割り切ってみれば楽なのか。
多分そんなことはない。
「仕事」としては給料がないし、仮に何かの対価をもらっても「だから無心」とはいかない。

誤解を招かないように書いておくけれど、摂食・嚥下対するわれわれSTの神経の使い方は、簡単には語れないレベル。
もちろん「誤嚥性肺炎」という恐ろしい病気もあり、食事の介助は緊張するし厳しい配慮を要する。

しかし、とはいえ、それはあくまでも職場での仕事の一つ。

対して、我が子の食事というのは毎日直面する上、親にとってはかなり重要な育児のポイント。
母乳やミルクとの割合、好き嫌い、栄養、食品添加物などなど、親だからこそ悩むもの。
患者さんや利用者さんにはその家族があるし他の従事者もいるけれど、我が子は自分がしなければ何もない。
だから、「食べなくても大丈夫!」なんて育児書に書いてあっても、保健師さんに言われても、不安になってしまう。
不安な気持ちがあるからこそ、準備した食事がめちゃくちゃになった時の虚無感・・・。

一人きりで向き合うと、ちょっとしたことも大きく感じてしまう

仕事で食事介助をしているその場は、大抵の場合多くの人が一斉に食事をとっているフロアになる。
すると家のように対象者と2人っきりで向き合うということは、あまりないシチュエーションになる。
周囲に人がいれば、もちろん作業には集中しているけれど、それでも周囲からの視線にも意識が向く。
イライラしたりせず、大変であってもあくまでも「従事者」として冷静に対応ができる。

また、もしも個室で2人っきりで介助する場合でも、やはり他の人が関わっている事実がある。
たとえばその食事は、調理担当スタッフが作ってくれているもので、自分が作るのわけではない。
栄養バランスの良い献立も(それが例えばまずいと言われたとしても)、栄養士さんが立ててくれる。
床がベタベタになっても、ある程度片付けておけば、時間になると清掃スタッフの方がピカピカにしてくれる。
自宅では全てが自分のしごとであって当然のことが、「仕事」では自然に役割分担されていく。
「人が作ったものならこぼしてもいい」訳ではないけれど、「自分が全部が無に帰した」よりはストレスになりにくい。

イライラしにくくなるポイントを、「生活」に組み込んでみた

我が家は、超核家族。
お互いの実家も遠く、親類や友人もいない土地なので、とにかくお互いが頼りの夫婦。
これは自分たちで理解した上で結婚・出産をした訳で、大変ではあるけれど不満はありません。

ただ、ずっと子どもと向き合い続けていると、時々「ただのわたし」になりたいときがある。
お母さんモードを解除して、1人でゆっくりコーヒーを飲んだり、あてもなく好きなペースで散歩をしたり。

そこに夫が「家事育児要員+1」として入ってくれると、ひとりで抱えなくて済むようになった。
この「家事育児要員+1」というのは、「この人にまかせて大丈夫か不安を感じずに丸投げできる」ということ。
「ホウレンソウ」によって、根回しやわたしによる入念な準備がなくても、彼が独立して家事育児をしてくれるということ。
たとえば子どもが寝付かず動けないとき、「明日の準備何もしてない」と報告して子どもと寝れば、
翌朝起きた時には朝食の下準備から、保育園の準備、洗濯物も完了して、変わらぬ朝が迎えられるということ。
そしてその役割が反対であっても同様であるということ。

周囲に人がいて、だれかが関わってくれることが「仕事」で冷静にこなすポイントであるなら、その「だれか」の役割を夫婦でしてみてもいい。
監視するのではなくて、相手を一人きりで従事させないための「だれか」。
初産から4年の時を経て、「1人っきりで戦場に立たない・立たせっぱなしにしない」が我が家のやり方になってきた。

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