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えくぼと引き換えに

有名なアニメで、老人が敵の姫に向かって「あなたも姫様だといっても、自分たちの姫様とは全く別物だ」と言いだすシーンがある。
自分たちの姫様は、腐海の毒で変形した老人の手を『働き者の綺麗な手だ』といってくれる」と、静かに伝える。
わたしはその場面がとても好きだ。人を大切にするということを「姫様」も「老人」も自然にしていると感じる。

仕事柄、高齢者と接することが多い。
そして、わたしが高齢者のからだに触れる機会も多い。
相手の不快にならないか、ボディタッチが苦手でないかを見極めながらだけれど、なるべく触れるようにしている。
すると、女性の方によく言われるのだ。「手がきれいねえ」

仕事はセラピスト、家では子育て中の主婦。
手のケアなんて寝る前にハンドクリームを塗る程度で、特別きれいな手をしているわけではない。
手が小さい割に指輪の号数は大きいし、子どもの沐浴で頭を落としそうなほど指も短い。
母から「ぽちゃぽちゃの指やな」と言われてきた、あまり好きな手ではない。
けれど高齢の女性からすると、まだシワもなく皮膚を伸ばしてもすぐに戻る、そんな手は目につくらしい。

そして、彼女たちの手を見る。
一様にシワが寄っていて、皮膚が柔らかく、強くこすったらすぐに傷がつきそうな手だ。
内出血がいくつもできている人もめずらしくない。
心の中に、例のシーンが浮かんでくる。
きっとこの手で、家族のご飯を作ったり、畑を耕したり、洗濯物を洗ったり、いろんな仕事をしてきたはずだ。
すべての彼女たちの手に、わたしには計り知れない歴史を感じる。それはほとんど尊敬と同義だ。
だからわたしは彼女たちの手こそ素晴らしいと思うし、自分の手が褒められたことを恥ずかしいと感じることさえある。

今年は暖冬だと言うが、さすがに食器を洗う水が冷たくなってきた。
普段は食洗機に頼っている我が家も、全てを食洗機に任せるわけにはいかない。
赤子の世話でますますケアなどできない日々のなか、親指の爪の脇がぱっくり割れた。

割れた指を見て、母を思い出す。
子どもの頃母の指が割れているのを見て、不思議に思ったことがあった。
ささくれならわたしにもあるけれど、割れるってなに?

母の皮膚が硬くなった指。祖母の、農作業で爪の割れてしまった指。
母や祖母の指や手にも、歴史が詰まっている。その歴史の上に、わたしが育っているのだなと、突然腑に落ちた。
「ごつい手やから」と装飾しない母の手は、本当はとてもきれいな手なのかもしれない。

割れた指はなかなか治らない。
薬を塗ろうとして、ふと、自分の手にえくぼがなくなったことに気づいた。
大人になっても手のひらが肉厚で、えくぼが消えなかったのに、いつの間になくなったのか。
いつまでも子どものようだったわたしの手が、大人のそれに似ていた。

女性たちが手のケアもできない生活をして、お母さんたちが身を粉にして毎日奮闘する。
それは決して素敵ではないし、わたしはそう言うふうになろうとは思わない。
ただ、年齢とともに自分の手が変化していくことを、わたしは大切にしたいと思う。
えくぼを失ったわたしの手は、これから新しい歴史を刻んでいける筈だ。

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