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「残酷で異常(原題:Cruel and Unusual)」2014年 #映画1本目

1本目。「残酷で異常(原題:Cruel and Unusual)」(2014年)

アマゾンプライムで視聴可能な良質サスペンススリラー。

家族のおすすめから見てみたいなと思ったのですが、直訳すぎるタイトルとアマゾンプライムのサムネイルがあまりに簡素なため、実際なかなか見てみようとはならずにいました。

ようやっと見た感想としてはとても面白かった。

サムネイルで損している、もっと多くの人に見てほしい作品とのレビューが見られましたがその通りだと感じました。

【あらすじ】==========================

主人公のエドガーはある日、妻のメイロンを口論の末に死亡させてしまう。遺体のそばで悲しみにくれていると、今度はエドガーが病によりそのまま死んでしまい、目覚めると見たこともない建物にいた。

そこでは、殺人加害者がグループセラピーを強制的に受けさせられていた。グループワークを取り仕切る女性評議者は、ここにいる人は全員、エドガーも含め死んでいることを告げる。メイロンの死が自分の罪であること、自分がすでに死んでいることに納得できないエドガーだったが、セラピーが終わり自分に割り振られた部屋へ戻ると、メイロンが死ぬ直前の時間が再現される。

グループワークと過去の再現を繰り返す中で、エドガーはとうとう自分の罪を認めるが、評議者は『まだ十分じゃない』という。グループワークをともにするメンバーと施設を抜け出そうと試みるも失敗し、永遠ともいえる時間をこの施設で過ごすこと、メイロンをあの部屋で殺し続けることへ絶望する。

ある時、エドガーのために評議者に反抗したドリスから受け取ったボタンが再現の際にも実在していたことに気が付いたエドガーは、自分の部屋にドリスを連れ込む。再現のなかでドリスは殺されそうになるメイロンをエドガーから助けることに成功し、エドガーの殺人の因果が終わったことを喜ぶが、ふと外の景色を見やると家の外が自分の死の再現となっていることに気が付く。

ドリスは自殺だった。アルコール中毒により廃人になった末、幼い子どもたちを残して自宅の庭で首吊り自殺をした。軒先で無邪気に遊ぶ愛しいわが子たちを眺めるドリス。しかしそのドリスの姿は子どもたちからは見えない。なぜなら現実のドリスは庭の木にロープをかけ、今にも死のうとしているからだった。

一方でエドガーはメイロンが助かったにもかかわらず、病が進行して自身が死にかけていることに対して不安を抱く。メイロンはエドガーの重すぎる愛情と束縛に我が子との幸せな将来を見いだせず追い詰められていた。その結果、メイロンはエドガーの食事に除草剤を混入させ、エドガーを死に至らしめようとしていたのだ。つまり、メイロンが助かったとしてもエドガーが死ねば、今度はメイロンがエドガー殺害の罪であの施設で無間地獄を味わうこととなるのだ。

メイロンに自分の死の罪を負わせるわけにはいかない。エドガーが庭で自死しようとしているドリスを見つけると、それを引き留めて思いとどまらせた。ドリスが使うはずだった縄にエドガーが自ら首をかけ、病で死ぬ前に自分の命を絶った。

その後メイロンは息子とともにある一家へ訪れる。そこには、自殺をせずにその後の人生を歩んできたドリスがいた。今も残る庭の木の根元に花を植える三人。エドガーの遺言にはこう綴られていた。「どうか信じてほしい。これが私たちにとって最良の形なのだと。いつまでも君のことを愛している。たとえそれが重すぎるのだとしても。」

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殺人加害者の死者たちのセラピーや罪の再現など、インパクト十分な要素が詰まった映画ながらも、急展開に息が詰まることも退屈することもなく、すんなり見ることができました。
エドガーの愛情は重すぎたようですが、実際この映画はそんなに重くない…。
この映画の見やすい理由としては、
エドガーにせよ、ドリスにせよ、グループワーク仲間のジュリアンにせよ、
殺人が起こる直前直後、約1日ほどの思い出しか登場しないからだと思いました。
メイロンの抑圧された日々やエドガーの過剰な愛がもっと長い期間描写されていたら、見ていて辛いと感じる人も多くなっていたのではないでしょうか。

それに殺人者としての側面が登場人物に色濃く出てしまうと、キャラクターへの共感・投影・同情がしにくくなってしまいます。
登場人物が自分となんら変わらない普通の人だと思えるからこそ、施設の残酷さや自分の犯した罪への気付きなどを登場人物とともに感じることができる。
そのあたりの線引きがとてもうまくできている作品だと感じました。

あの施設は一体何だったのでしょうか。
エドガーが少しだけ施設から抜け出したとき、エドガーは事件当時のメイロン、息子のゴーガン、弟のランスの視点となり自分の行動、言動を相手の立場で経験します。

その際にエドガーは、支配欲が強く、メイロンと一緒になるためなら息子さえも排除しようとする自分を客観視し、ようやく自身の歪んだ愛情を認めるすることができました。

その結果、もう一度あの牢獄ともいえる施設に自ら戻ることを選択しました。

しかし、最後のシーンでエドガーはメイロンのために自死したことをまるで誇るように、グループワークの部屋で尊大な態度をとっています。エドガーの罪は洗われなかったということなのでしょうか。

愛すること、死ぬこと、罪と罰、これらがSF作品のメインテーマに違和感なく置かれている、それが私が感じた見やすさなのでしょう。

本作はエドガーが何度も再現を殺害当時を再現するため、そのなかで回収されていく伏線が多々あります。最初の再現の際に、エドガーは違和感を感じつつ、車を降りて樹に向かって歩いていきます。それは、実はドリスが首を吊った庭の木なのですが、エドガーは知っているはずがありません。

エドガーが樹に対して感じた「何か」とは、やがて起こるべきもう一つの終焉、ドリスの家の庭で首を吊るという新しい真実からくるエコーのようなものだったのかもしれません。

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