音楽と心理学もどき2 (社会学か?)



音楽のもつ共感性の強さを前回少し書かせて頂いた。
共感性が強い、すなわちその人の感情や思考などの内面的なものを音楽が表現するということだ。
そこで今回は、最近の日本で人気な音楽の傾向をざっくり解説して、日本人の心理について考えてみたい。

と言っても、私はテレビ番組も観ないし、最近流行りの音楽にもあまり詳しくないので、「最近の日本で人気な音楽」というのは、よく聞く流行ってるらしい音楽、周りの人がおすすめしている最近人気らしい音楽、として進めたい。「最近」というのもざっくり平成くらい、と思っていただきたい。

最近の日本で人気な音楽の大きな特徴それは
①長調である。
②ビート感が強い
③Aメロ→Bメロ→サビの形式でできている。
の3点ではないだろうか。

音楽用語を軽く説明すると、「長調」というのは明るい曲調を作り出す音階の名前だ。いわゆる「ドレミファソラシド」などである。同じ音階でも何音か半音低くするだけで、あら不思議。一気に暗い曲調になる。ドレミファソラシドで説明すると「ミラシ」にフラットをつける。(ややこしいことにラとシにつかなかったりもする。)原則、この音階の音を使う。
「ビート」は一定のリズムを刻むことであり、8ビートは8分音符で、16ビートは16分音符で刻む。強拍と呼ばれる強いリズムが2、4拍に来ることによって、軽い印象になる。
「形式」とは音楽を意味のあるまとまりで分類し、それを組み合わせること。いわゆる、AメロBメロ…と曲を分けて考えることである。1番はAメロ2回繰り返したが、2番は1回しかなかった、ということはしょっちゅうである。


では、本題に入る。
①長調について
長調とは上で解説した通り、明るい印象を与える音の使い方だ。もちろん、音階にない音や和音、その調の和音でも短調の響きをもつ和音を使ったりすることで、明るいが少し影のある印象を作ることもできるし、切ない曲にすることもできる。一口に底抜けに明るいとは言い切れない。だが、それにしても明るい曲が多いような気がする。本来、昔の日本の音楽には短調の曲が多いし、昭和の歌謡曲にも短調の曲はもっともっとあった。日本人のまじめで慎重な気質には短調がしっくりくるのだ。(慎重は不安を強く感じるからこその気質である。)それなのに、今では短調の曲はすっかりマイノリティなのはなぜか。日本人の気質がポジティブで楽天的にでも変化したのであろうか?

②ビート感について
最近の曲はビート感が強い。どの曲もとりあえず8ビートが使われているように思う。(時々16ビート。)演歌でみられるような頭拍に重きを置く曲は今ではほとんどない。裏拍の曲ばかりだ。そのため曲から受ける印象はより軽く、よりリズミカルになった。のんびりじっくりではなく、スピーディに軽くだ。日本人はせっかちなのか?

③形式について
最近の曲はもっぱらAメロ→Bメロ→サビの流れが多い。もちろん、Aメロを2回繰り返していたり、2番の後には違うメロディ(Dメロ?ブリッジ??)を挟んだりしてもう一度サビをもってきたりと多少の違いはあるが、それも多少でしかない。かつて昭和の歌謡曲なんかではAメロ→Bメロ→Aメロの形式(ex.『異邦人』)やAメロ→Bメロ→Cメロ→Dメロの形式(ex.『UFO』)など多様な形式が人気を得ていた。これらの形式が最近のABサビの形式に劣るかと言えばそんなことはない。十分面白い曲や伝えたいことを効果的に表現できる。そもそも、ABAの三部形式などは古典音楽ではかなり一般的だ。では、なぜ形式は固定されているのだろうか。


以上3点から疑問点をあげてみた。
そこから私なりの推測をしてみたい。
まず、日本人の民族性についてだ。日本人というのは欧米の文化を柔軟に取り入れ、受け入れてきた民族だ。そこから、西洋の音楽理論に基づいた音楽が発展したのは当然の流れであろう。ただ、まだまだ今のように海外音楽に親しめない時代では、西洋音楽理論に基づいて発展した日本独自の感性による音楽が多かった。だが、海外アーティストのCDや映画が気軽に鑑賞できる時代が来ると、より欧米の感性に沿った音楽に触れる機会が増える。柔軟な日本人はその素晴らしさに気づき、すぐに取り入れるだろう。反面、日本人の悪い癖、「他人に合わせ過ぎ」も発動する。古き良き名曲も遅れている扱いし、我先にと新しく「良いもの」とされる物に合わせたがる。そうすると需要も一気にそちらへ傾く。結果、明るくスピーディな音楽が流行る。音楽だけでなく、考え方も感性も欧米のものをどんどん吸収しているので、必ずしも日本人の気質に合わないわけではないと思うが、根本的な親世代から子の世代へと受け継がれた常識や心理的なものはかなり深く、ちょっとやそっとの外からの風ではなびかない。その一つが、慎重で不安感が強い日本人の心理だ。この不安感はなかなか明るい曲を聴いても寄り添ってもらえないだろう。むしろ、毒の効いたネガティブな曲を聴いた方が慰められる。

もう一点、現代人の安全志向について。安全でありたいというのは、不安感の強い人間にとっては当然のことだ。作り手の「変な曲を発表したくない」、聴き手の「変な曲を聴いてると思われたくない」という守りの精神があれば、明るくリズミカルでよくある曲を求めてしまうのも頷ける。そして、残った形式についてもここで説明がつくのではないか。
形式が固定されるということは、ある意味日本人の大好きな様式美が確立されることである。特にAメロBメロサビの形式は、Aメロで曲の雰囲気を提示し、Bメロで少しテンションを落として、サビで一気に盛り上げる、という非常にわかりやすい美味しいものが味わえる。Bメロとサビの差別化はほんとうに美味しい。グッとくる。なので、作り手も聴き手もこの形式であればある程度の満足が得られる。まるでファストフードだ。どこにいても手軽に同じ味が保証される。失敗はない。
ちなみに、米津玄師さんの『海の幽霊』は、Bメロで落とすという手法使っておらず、だんだんと盛り上がっている手法を使っている。米津さんの「そんな小手先に頼らなくたって、最高の盛り上がりを見せてやろう」という巧みさと自信、もともとの一筋縄ではいかない感性を感じた。が、実はそんなに聴いていないので、違ったらごめんなさい。

というわけで、今回は日本人の不安感に話がまとまったのでここらへんで終わろうと思う。ほんとは「現代人はせっかちだ」とか「現代音楽、その入手方法、鑑賞方法の多様化」などのことを書こうとしていたのだが、全然違うとこに落ち着いてしまった。ま、いいや。
他者を過大評価し、安全を求めるのも、慎重さとその裏にある不安感故であろう。そのおかげで発展してきたこともある。
だが、日本人。自分のもってる感性、心ももうちょっと大事にしては良いのではないか。人は人、他人は他人なのだから。
ぜひ、他人にばかり合わせずに、自分の好きな音楽を堂々と楽しんでもらいたい。

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