2011年11月NHK杯の「愛の夢」のリアリティを私に思い出させた『なぜ私たちは生きているのか』(2017年)の記述

昨日13日の夜、14日に日付が替わりつつある頃、琉球泡盛「南光」を飲みながら、ものすごく久しぶりに佐藤優と高橋巖の対話的共著『なぜ私たちは生きているのか』(平凡社新書、2017年)を読んでいるうちに、2011年11月NHK杯の「愛の夢」の最後の瞬間のリアリティを私は思い出すことができた。

特に102頁の高橋氏のこの発言を読んでいた時である。

〈聖杯というと、ワーグナーのオペラ「パルジファル」を思い出しますが、自分が器になって何かを受け入れる感覚とでもいいますか、包み込んで相手と自分がひとつになり、それによって自分も相手も変容する感覚の問題です。佐藤さんの本を読んでいると、聖杯的なもの、自分のなかに心情で受け入れたものと運命的に関わろうとする姿勢をよく感じます。〉(102頁)

特に「自分が器になって何かを受け入れる感覚」「包み込んで相手と自分がひとつになり、それによって自分も相手も変容する感覚」である。これはまさにあのことをあらわしている。

そして、「自分のなかに心情で受け入れたものと運命的に関わろうとする姿勢」、「いったん読み始めたら、一度は100パーセント、エンゲルスの立場になって、著者の思いと心をひとつにしようとします。読み終わったらまたもとの自分に戻る」「内在的な論理をつかむために、対象と徹底的に付き合う」という心構えである。

まさにこの心構えで、私は2014年4月に、真央ちゃんについての二つの伝記的著作『浅田真央 そして、その瞬間へ』(2013年)、『浅田真央 さらなる高みへ』(2011年)を相次いで読んだ。そしてその流れで、5月にYouTubeで2011年11月NHK杯の「愛の夢」の動画を見た。それだから、その愛のリアリティに私ははっきりと気づくことができた。

関連する箇所を引用する。

現象をとらえる宗教学的手法と内在論理をつかむ神学的手法

高橋 ヴェーバーは労働と社会価値を結びつけ、働くことを尊いこととしてしまうところが男性原理的ですし、違和感があります。ヴェーバーの考えでは、家事労働に従事している女性も社会的弱者もはじかれてしまいます。家事労働は労働力とは認められませんから。
 先ほど、キリスト教の女性原理の話をしましたが、それが象徴的にあらわれているのが「聖杯〔グラール〕」であると、最近リーアン・アイスラーの『聖杯と剣――われらの歴史、われらの未来』(法政大学出版局)という本を読んで教えられました。アイスラー女史はウィーンに生まれ、ナチスの迫害を逃れてキューバに亡命し、のちにアメリカに移住したという社会学者ですが、社会運動家としての面も知られています。
 聖杯というと、ワーグナーのオペラ「パルジファル」を思い出しますが、自分が器になって何かを受け入れる感覚とでもいいますか、包み込んで相手と自分がひとつになり、それによって自分も相手も変容する感覚の問題です。佐藤さんの本を読んでいると、聖杯的なもの、自分のなかに心情で受け入れたものと運命的に関わろうとする姿勢をよく感じます。
 たとえば私がマルクス主義に対しては否定的な立場にいるとします。でも、仮に『反デューリング論』(エンゲルス)のようなマルクス主義の本をいったん読み始めたら、一度は100パーセント、エンゲルスの立場になって、著者の思いと心をひとつにしようとします。読み終わったらまたもとの自分に戻る。この感覚は佐藤さんと共通するのではないかと思うのですが。

佐藤 ご指摘のとおりです。内在的な論理をつかむために、対象と徹底的に付き合うというのは、神学的な方法であり、私の書くものにも表れていると思います。それですから、以前、朝日新書から出した『創価学会と平和主義』という本の執筆中は、戸田城聖全集、池田大作全集を徹底的に読み込みました。
 しかし、このやり方は理解されないことも多い。『創価学会と平和主義』は、宗教学者の島田裕巳さんから「創価学会が出している文献を論拠にするのではなく、客観的な形で書かなければいけない」と猛烈に批判されてしまいました。

高橋 ヴェーバーと同じで、現象としてとらえるタイプの人にはわからない感覚なのでしょう。宗教学の人たちは、個人の主体性の問題としてとらえるのではなく、外から、合理主義の立場から客観的、論理的に宗教という現象を説明しようと試みますから。

佐藤 そのとおりだと思います。島田さんは一時期、創価学会の僧侶なしの友人葬であるとかを評価していたのですが、近代主義と合致した、世俗化された宗教形態であったから評価したのだと思います、その方法では、創価学会の救済観はわかりません。よい悪いを判断するのではなく、その宗教の枠組みでは、こういう救済の論理になっているという、救済観をつかまねばなりません。宗教は音楽と一緒で、耳がよくないと音が聞き分けられないように、新宗教や既存の宗教のどこに琴線に触れるものがあるのかがわからないと、救済観はつかめません。
 島田さんの創価学会本を何冊か読んでみたのですが、創価学会を離脱した人の手記や匿名の創価学会幹部といった挙証できないデータを使って書かれていて、それこそ「俺の言うことを信じられないのか」というような嫌な感じがしました。

佐藤優・高橋巖『なぜ私たちは生きているのか シュタイナー人智学とキリスト教神学の対話』平凡社新書、2017年、102~104頁

〈島田さんの創価学会本を何冊か読んでみたのですが、創価学会を離脱した人の手記や匿名の創価学会幹部といった挙証できないデータを使って書かれていて、それこそ「俺の言うことを信じられないのか」というような嫌な感じがしました。〉と言う佐藤優に私は深く共感する。

〈よい悪いを判断するのではなく、その宗教の枠組みでは、こういう救済の論理になっているという、救済観をつかまねばなりません。〉と佐藤優が言っていることが重要である。

「創価学会が出している文献を論拠にするのではなく、客観的な形で書かなければいけない」という島田裕巳の批判に私は同意しない。

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