見せかけの「古典的な重み」の苦しさ。「リズムがおかしくなった」体に再び命が吹き込まれるために。

「人為的に作られた古典」。「新しいファイナルファンタジー7」の「クラウド」などが、新しいものでありながら「古典の重み」のようなものをまとっている。それは「人為的に設定された規範」である。それに従う人々の存在によって支えられる「権威」が、その特殊な空間内に「秩序」をもたらしている。

それに本物の価値があるわけでは全くないが、「それ一つしかないこと」によってのみ、それは「権威」を得ている。技術的には高度な洗練によって「古典の重み」のような雰囲気をまとっているから、精神的に貧しい者たちが一定の「誇り」をもってその作業にあたることができる。優等生の虚栄心を満たす。

そのような「インチキな重み」が日本を支配している。テレビ番組のナレーションで常に不自然な「ウエイト」がかけられるようになっている。「プロジェクトX」がその手の最たるものであった。それが最近「復活」したというが、以前と全く変わらず「重み」がかかったナレーションに私は苦しさを感じる。

全般的にそのように「カルト宗教」や「ファリサイ派」のように日本の文化の主流はなりつつある。真央ちゃんの新しいアイスショーに感じられるのも、そういう見せかけの「古典的な重み」である。つまらない優等生の虚栄心や「誇り」によって支えられた「権威」の悪い感じが、その奥から常に漂ってくる。

要は「リズムがおかしくなっている」。日本の大衆文化の全般に、これが2003年頃までに感じられるようになった。日本の若い役者たちが、しかるべき役者の息遣いやリズムなどの技を十分に身につけないまま、演じるようになった。演技に命が吹き込まれないようになった。キムタクもこの流れに属した。

そのような状況で、2003年の末に窪寺昭が実写版「美少女戦士セーラームーン」で「クンツァイト」として現れた。それが紛れもなく本物の正統的な演技であることがわかった。それが受け継がれている。失われたと思われていた正統性、いわば「王の血筋」が、まだ生きていたことの安堵と喜びであった。

そして2005年に現れた浅田真央ちゃんが熱狂的に迎えられたことの背景に、この文脈を私は見てきた。当時の「日本の演技」の悲惨さに失望していたからこそ、「若い日本人の生き生きした演技」に人々は喜んだ。もちろん真央ちゃんだけでなく、フィギュアスケート界の全般にそういう文化が生きていた。

「自分の依って立つところ」を「狭い一つ」(単一のアイデンティティ)に人間が勝手に限定するからだめなんだ、と直観した。「基盤」にある程度の「幅」がないと強くない。キムタクも野村哲也も、だからだめだった。先人である天野喜孝などの力の源である「基盤の広さ」を無視し、それに習わなかった。

「ファイナルファンタジー11」のこの絵を思い出しながら書いていた。「複数の異なるものたち」がその「基盤」の上に乗っかって、そのように生きている。そういう「基盤」が彼らの「だいじなもの」であることを意味する。

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