最近、「ダイヤモンド・オンライン」で佐藤優の記事につけられるようになったタイトルへの違和感について

「40代の転職で、高年収とやりがいを両立できる?」→佐藤優のアドバイスが的確すぎて何も言えない
「中学受験の勉強と習い事は両立できる?」→佐藤優の答えが納得すぎて、ぐうの音も出なかった!

最近、「佐藤優」でGoogle検索すると、こういうタイトルの「ダイヤモンド・オンライン」の記事が現れるようになった。それを最初に見た瞬間から、私は違和感を覚えていた。「嫌な感じ」がする。なんでそんなタイトルを「ダイヤモンド・オンライン」はつけるようになっているのか。その背後にはどのような人間の関係があるのか。何か「トラブルの気配」が感じられる気がする。

この違和感あるいは「嫌な感じ」の正体は何なのか。これらのタイトルは「間違っている」。なぜか。

なぜなら、佐藤優の発言はけっして「的確すぎて何も言えない」とか「納得すぎて、ぐうの音も出なかった!」ようなものではないからである。それに対してわれわれは常に何かを言える。つまり、佐藤優と「対話」することがわれわれにはできる。佐藤優の言葉はそういうものである。

だから、問題は、佐藤優の言葉を「的確すぎて何も言えない」とか「納得すぎて、ぐうの音も出なかった」ようなものとして受け取っている人間の側にある。そうやって勝手に人の言葉に「権威」を付与している人間の側に問題がある。受け手の側の能力や心構えの問題なのに、その責任が佐藤優の側だけにあるかのように言いなしている。「対話できる」はずなのに、「対話できない」ものと勝手に思いなしている。言葉に対する責任を佐藤優の側だけに転嫁して、自分はその責任を負わない、という姿勢を示している。自分の言葉の力が不足しているせいなのに、佐藤優の言葉が「的確すぎ」「納得すぎ」るからだ、と「対話できない理由」を勝手にでっち上げている。

佐藤優の言葉は実際に対話可能なもの、「開かれたもの」であるのに、それを勝手に「閉じられたもの」であるかのようにみなして、真実に反する謳い文句で宣伝していることに、決定的な間違いがある。その愚劣な「嘘」、不誠実さと反逆に私は苛立っている。

つまり、「言葉のプロ」であるはずの編集責任者が、佐藤優についてしかるべき言葉を選ぶ責任を放棄する姿勢を示している。佐藤優の言葉を正しく紹介する能力、それを「運ぶ」能力が自分に不足していることをアピールし、「佐藤優は自分の手に負えない」と言っているようである。

あるいは、「そこまでして外に向けて訴える必要がある何か」があるのかもしれない。

すなわち、「ダイヤモンド・オンライン」の組織内の「偉い奴」あるいは「態度のでかい奴」が、佐藤優に勝手に「権威」を付与しているのではないか、と私は不信の目で見ている。そのせいで人々の関係にどこか「不自由さ」が生じているのではないか。そういう「関係のあり方」に問題がある。それを、これらの記事のタイトルは示しているかもしれない。

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