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揺らぐ自分のセクシャリティ

今回は私のセクシャリティの話。
今一度自分のセクシャリティについて考える機会がありまして、再度セクシャリティ診断を受けたりした分をまとめました。


前回から今にかけての揺らぎ

前にこんな記事を書きました。

これ、もう1年半前なんですね。
つい最近書いたような気がするけど気のせいだった…時がたつのが早すぎる。

私のこころの性はジェンダーフルイドです。
前回記事ではXジェンダーと記載していますが、書いたときにもう一度受けた時はジェンダーフルイドという診断になっています。私自身はこちらの方が違和感なくしっくりくる表現なので、この理解で問題なさそう。

裏垢初期はかなり一人称を「私」に寄せている時期だったので使うことは全くなかったと思いますが、今はプライベートでも仕事でもふとした時に「俺」って言うことがあるので、もしかしたら実際にお会いした方も私の「俺」呼びを聞いたことがあるかもしれません。

性的指向に関してはパンセクシャル、サピオセクシャルなんですが、自分のフェチズムがはっきりした結果、どうしても男性に向いてしまうんだなと腹落ちしたところがあります。

というのも、私のフェチズムは「人体、特に人の肌やむちっとした筋肉(肩を中心とした上半身)」なんですね。以前書いた時はぼかしましたが、ちょっとはっきり書かないと伝わらないと思ったので書いておきます。

肌に関しては触れて楽しむのでフェザータッチが好きという結論に至るわけですが、筋肉は私自身の体格がいいこともあって、私よりも筋肉があることを求めるとどうしても男性に矢印が向いてしまう。
なお、ばきっとした筋肉よりむちっとした筋肉の方が好きです。ばっきばきもかっこいいけどな、あれは美術品だな。

私自身はパンセクシャルですが、こういう理由でどうしてもお相手は男性を選びがちです。好きになる女性もだいたいむっちりしたタイプだし。

逆三角形とか本当にぐっとくる。
むちっとした、レスラーみたいな肩とか背中とか。
かぶりつきたい。俺には背中を見せろ。背中で語ってくれ。

まぁ、もう一つの性的指向でサピオセクシャルもあるのでね。
いいなと思う方を考えた時にかなり両極端なのでは?と思っていた時期もありましたが、この二項目に分けて性的指向を納得できたのでうまくまとまった気がします。

そして最後に上げたクワセクシャル。
「好きは一本のベクトルしかなくて」ということを書いているんですけど、私の中ではどうもしっくりきていませんでした。
プラス感情か、マイナス感情かという話なら一本のベクトルなんですけど、もっと細分化、枝分かれするような感覚もあって。
あの記事書いてからずっと、この項目については考え続けていたんですね。


ちょっと事件が起きた

実は先日、よく遊ぶ後輩くんに付き合ってほしいと言われました。
私はそれに対してごめんなさいとお返事したわけですが、その時にこのクワセクシュアルを思い出したんです。

彼とセックスするつもりはないんだけど親愛の情はあるんだよなぁ。
彼に対する「好き」ってどんな好きなんだ?

前回記事を書いた時に比べていくつか言語化できることが増えたこともあって、もしかしたら内容が変化しているのかもしれないと思い、もう一度同じ診断を受けてみました。

大して変わってねぇなぁ。
コアラがワニになりました、どういう違いなの?

私はここ数年は言語化の鬼でありましたので、「好き」というものも細分化するようにしていましたが、それぞれの「好き」を「恋愛感情」や「友情」と言い切ることがしっくりこないなという実感がありました。

「雑談ができる/できない」や「この人とのセックスは好き/嫌い」とか、そういう細分化は出来るんですけどね。
具体的な内容で表現するのが精一杯でした。他の言葉に置き換えて抽象化した途端に何かがぼやける。
その人に対して向ける「好き」が包括するものって、それぞれで微妙に違うと思うんですよ。全く同じものってない。

いま改めてクワセクシャルの説明文を読んでいて、そういうことなのかなぁと感じています。


性的指向>恋愛指向

気持ちいいセックスは好きだからしたい。
その結果で性的指向は言語化が捗ったんだろうなと思います。

でもその分、恋愛指向については置き去りになってしまったのかもしれません。
というか、私自身があまり恋愛を指向してこなかったのではないかと今になって思います。恋に落ちるとは執着だなと思うので、そういう意味では健全な「恋愛」ってよく分からない。

そもそも、私が誰かと付き合うか否かの基準はまずその人とセックスできるかどうかから始まります。これ、中学生ぐらいからこう思っていたのでもう本質の部分なんでしょうね。
もしかしたら恋愛指向はほぼなくて、その部分を性的指向がカバーしているのかもしれないと思いました。


終わりに

セクシャリティについて久しぶりに向き合うタイミングがあったので文章を書きました。
書いていて感じたことは、「好き」の中身や読み解きは私自身の気持ちやあり方でも大きく変わるし、ここははっきり線引きして言葉にしない方がいい部分だろうということです。

言葉にすることで自縄自縛に至る部分のような気がする。

これだけ書いてますけど、私の本質は直感型、本能型です。
言葉に当てはめることでそれ自体に縛られるという経験はよくあります。

まぁその、「スキ!!」か「いやっすね」かぐらいの解像度で見ていた方が判断を誤らないだろうなという感じですね。
裏垢でもこれぐらいの解像度でそれぞれの関係を見ているので、「なんで?」って言われて困る経験を何度かしていますし。

それを再確認したということで、この記事を書いた意味はあったなぁという気持ちですはい。