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noteでは等身大が受けいれてもらいやすい。

noteでは、

いい意味で一般人としての苦労を

素直に打ち明けても

共感されやすい世界に感じる。

YouTubeとか、他のコンテンツはもしかしたら

いい意味で苦労で培った教訓よりも

流行的で質のいい情報が求められる世界かもしれない。



noteだから優位な立場になれていると

ますます思うかもしれない。



適材適所かもしれない。

note公式と、noteユーザーが求める人物像

いい意味で本来の私が

いい意味であまり違いがないというかなんというか。




noteだと、いい意味で個性を生かすことができているかもしれない。



noteじゃないコンテンツでは、

いい意味でこれまでの苦労で培った個人の教訓よりも

流行的で質のいい情報が求められているように思うかもしれない。

noteでは、いい意味でこれまでの苦労で培った個人の教訓も

需要があるもので、

需要がある=いい意味で流行の一部

私はいい意味で書きたいものを書いていても

流行の一部に乗っているような気持ちになるかもしれない。

テキストベースのコンテンツ・プラットフォームだから

書けば書くほど、

届いた人との誤解、すれ違いが少なくなるかもしれない。

それは、私が文章が特に得意だから

ということかもしれないけれど。

文章を書けば書くほど、

いい意味で届いた人との誤解、すれ違いが深まってしまう

人もいるかもしれない。

そういう人は、テキストベースじゃない表現方法で

自己表現することが得意なのかもしれないし。

私がテキストベースで表現することを好んでいるのだって、

元を辿れば、

テキスト以外で自己表現しようと思えば思うほど

届いた人との間に誤解、すれ違い、が深まってしまう、

ためにたどり着いた答えかもしれない。

理由はいい意味でともかく、テキストによる表現の方が

精神的に楽かもしれない。

絵や音楽で表現するよりも、

もっと早く自分を伝えられるかもしれない。

早く自分を伝えられる。

それは早口で伝える、ということじゃないけれども、

私が、いい意味で第三者に自分を伝えるにあたって、

テキストで伝えることがいい意味で最も効率が良く感じるかもしれない。

知力の程度や、ユーモアセンスだけじゃなくて、

いい意味で何を好み、いい意味で何を好まないか、

それを伝えられる速さが、テキストだと高速かもしれない。

時には、テキストは、自分の至らなささえ

高速で伝えることがあるかもしれない。

音楽も、絵も、いい意味でそこは同じかもしれない。

しかし、音楽や絵で、いい意味で成り上がれなかった私は、

いい意味で文章(テキスト)に対する愛情がいい意味で強いかもしれない。

テキストによる表現にいい意味で愛情があるからこそ

いい意味で自分よりも優れた物書きがいても、

いい意味で諦めがつくかもしれない。

それもあり、ますます精神的に楽に、

向上していくことができるかもしれない。

音楽や、絵は、いい意味で自分の中で

(自分よりも優れた表現者がいるとしても)

いい意味で諦めがつかないから

逆に、いい意味でそこまで愛がないかもしれない、と感じるかもしれない。

最初は、絵、音楽に注いでいた愛は、

文章に対して注ぐようになった。

絵、音楽ではいい意味で成り上がれなかったかもしれない。

だから、ますます文章(テキスト)による

表現が愛しいと感じるかもしれない。



YouTubeは、テキストを書くところじゃないかもしれない。

先ほど説明した理由もあり、

文章に対する愛が一番大きい。

文章 4割

音楽 3割

絵 3割

くらいのバランスで愛しているかもしれない。



文章だけに特化すると、

いい意味で見聞が狭くなるような気がして、

文章のみに特化することはいい意味でしていないかもしれない。

音楽や、絵に挑戦して、

いい意味でブービーになるとしても

その分野を自分以上に愛している人の感覚に

いい意味で近づくことは

いい意味で素敵なことかもしれない。

だから、いい意味で成り上がるまで行かなくても

音楽も、絵も続けるかもしれない。

自分の得意なことだけに挑戦して、

いい意味で得意じゃないことは全部に他者に任せる。

それで、いい意味で世界は回るのだろうか(生活はできるのだろうか)。

あれが得意じゃない、これが得意じゃない、

と簡単に言わないで、

できるように努力する気概は大切かもしれない。

大抵のことは、いい意味で初めから

満足にできなくて当たり前かもしれない。

訓練するから、いい意味で満足にできるようになっていくかもしれない。

だから、最初から、

いい意味で、あれが得意じゃない、これが得意じゃない、

と簡単に言ってはいけないかもしれない。

いい意味で、学校でそういう教育を受けてきたのだから、

そういう考えがベースにあるかもしれない。

そのベースをいい意味で、

解体する事はいい意味でできない(したくない)。

いい意味で自分のベースを直ぐに解体できる人は

いい意味で信頼できないかもしれない。

そういう状態だと、

いい意味で中身のない人間、だと言えるかもしれない。

私は、自分のベースはいい意味で簡単に解体しないかもしれない。

自分のベースを大切にすることが

いい意味で中身ある人間であるために

必要なことかもしれないからだ。



ゲームのハイクオリティな音楽に触れ、

中田ヤスタカという神の音楽に触れ、

音楽に興味を持ったにもかかわらず

一生、聴く専門でいよう、

とすると

いい意味で空虚な気持ちになってしまいそうで。

それがいい意味で好ましくないから

音楽に挑戦しているかもしれない。

絵は、いい意味で、物心つく前から描いていて、

褒められることが多かった。

絵が褒められる、自分の全てが褒められるような気持ちになっていた。

しかし、もっとレベルの高い絵を描こう、と学習する事は

いい意味でしなかった。

いい意味で、ほとんど努力していないのに褒められる、

ような状態が脳にやみつき、

高度な絵を描こう、と学習することなく

いい意味で今に至る。

その考え方は、いい意味であらゆる分野の姿勢に

影響しているかもしれない。

私は、いい意味で血のにじむほどの努力を嫌う。

そのような事はせずに、

楽々、成果を伸ばす方法を考えるかもしれない。

結果、精神的に楽な、テキストベースの表現を

メインにしているかもしれない🍆⭐️🗼🔮🌈




















楽しくて得られるものが多いクリエイターになります⭐️⭐️🗼🔮🌈