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丁寧に書いた雑記II

曲を色々アレンジしたいけれど、他の方が作った曲は大抵、

著作権で編曲が禁じられているため、

(使用料を支払う細かい手続きを行えば、

オーケーかもしれないけれど、

そこらへんを完全に理解することがいい意味で難しい)


魔改造的アレンジを行うのであれば、

自作曲で行う他ないなー。という結論を導いている。


編曲の権利は、なんとか肖像権で、

守られているというから。

製作者の許可なしに、編曲して、それを発信することは、

いけないことなんだ。

そこらへんちゃんと理解しないまま、発信する方もいるようだ。

YouTubeとニコニコ動画はJASRACと契約を結んでいるから、

そのまま譜面通りに演奏したのを投稿することはオッケーという。

アレンジは、本人に許可を取らないといけない。

グレーゾーンという概念に甘えたくない。

みんなもやっているから大丈夫でしょ。

なんてことはない。

赤信号、みんなで渡れば怖くないけれど、

本当に大切なのは、

青信号になってから渡ることだ。


みんなで赤信号を渡っている方たちに、

何かをいうのも自由。

触れないことも自由。

著作権に関して、完全に理解することは、わたしにだって難しい。

実際、こういう発信の仕方は、本当はアウトなんじゃないかな❓

という投稿が、

読まれていたり、人気が伸びていたり、

とかあるかもしれないが。

(そこらへんも正確に分からない、極力、これ本当はアウトなんじゃないかな、と感じる方を発見しても、触れないことにしている)


無断アップロードされた音楽の動画を、

転載することは、法で裁かれないけれど、

非推奨だということを、どれくらいの方が知っているのだろうか。

本当は、プロのミュージシャンの公式の動画も、

勝手に転載してはいけないという。たしか。

わたしはプロのミュージシャンの公式の動画を、

転載したことはあるけれども

それくらいで、

わたしはとんでもないことをしてしまった

と落ち込むことが合理的ではない世の中である。


信号を渡るのは青信号になってから。

それが当たり前。

そのルールを守らない人が一定数、

社会に入るけれど、

そういう人は日頃の行いが原因で転ぶと思う。

わたしは、法を犯さず、凛として構えていればいい。


凛として(自信を持って)構える、ためには、

完全な理解は難しくても、

著作権について勉強しなければならない。

そこをサボることは甘えだ。

著作権を勉強する前に、

著作権を正しく知ろう、とする意志が必要だ。


みんなで肩を組んで、赤信号を渡っている方達を見つけて、

それが悪い、と論理的に述べたとしたら、

相手のためになってしまう。

赤信号を肩を組んで渡っている方達に触れないのは、

優しさではなく、わたしの手を介することなく、

いつか沈めばいい、と内心では思っているのである。


人を呪わば穴2つ、というから

わたしは

赤信号をみんなで渡っている方達を

個人的に憎みはしない。

いろんな背景があって、よほど、度の過ぎたことじゃなければ、

寛容な社会に許される範疇かもしれないからな。

しかし、わたしの道徳観に基づいて、

赤信号をみんなで渡る方は、

青信号で渡る方とで、

区別している。

赤信号を渡る方が損をして、

青信号で渡る方が得する、

社会にしたい。

そこはそうジャッジした。

相手をジャッジしなくていい。という考えもあり、

わたしは普段、相手を極力ジャッジしないけれど、

心の核では、そういう区別をしているのである。

そういうわたしも触れられたら困るようなことも、

これまであるし、

こういう話は基本的に話さない方が、

いいかもしれない。

お互い様のことだからだ。

わたしだって、プロのミュージシャンの公式の動画を

転載したことはあるし。

同じことをした方を責める権利もあるけれども

責めない権利の方を基本使う。

相手のことを責めたとして、

「あなたはどうなんですか❓」

と言われたときに、同じことをしていたなら、

なぜ言ったのか、ということになるかもしれない。


寛容な社会が作り出したグレーゾーンに、

甘えることはできる、と覚えておいてもいい。

しかし、それに甘えすぎることはよくない。

寛容な社会は、それらをなぜある程度、黙認しているのか

背景を知る努力、勉強は必須だ。

それを知る努力、勉強をすることで大人になれる。

自分に自信を持つこともできる。


ここに書いたことの、信憑性は保証できない。

それくらい、著作権に関する理解は、複雑で難しいことだからだ。

法律や、難しい話をひっさげて、

ルールを守らないものを裁くことは、

わたしじゃない別のだれかが行えばいいと思う。


わたし自身は、悪を見つけても、

自分の手で裁こうとしない。

わたしじゃない、別のだれかが捌けばいいさ、

とおもっていて、

それもまた、グレーゾーンに甘ているとも言える。


相手を、法を使って裁くことは、

いつも通り生きるよりも神経を使う。

相手をさばくとき、法は、神でも悪魔でもある。

それくらい絶対なもので、逆らいようがないものだ。

法を使って、相手をさばくとき、

自分が神であるとか、悪魔であるとか誤解してはいけない。

法を使って、神の代わりに行なっているだけで、

さばく側も人である。

人が、神の代わりを行うことは、傲慢だと思われてもおかしくはない。。

しかし、それも

老人ホームの雑務と一緒で、

だれかが行わなければならないことだ。

神の代わりを行うなんて傲慢だ

と言われる覚悟で行わなければならない。


そういう仕事を、わたしは別の人に任せて生きているとも言える。

わたしは、法を使い、神の代わりになり、

他者を絶対を言い渡すことは

これまで避けている。

神の代わりを行う、という行動が傲慢なことに思えて仕方がないことと。

絶対、を言い渡すことは、少なからず、相手を

絶望させる場合があるし、

ポジティブな絶対を言い渡す場合も、

本当に守れるのかどうか、分からないことだから。

ビジネスの世界では絶対を使ってはいけない。




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