自由な学校もいいけど、それではわがまま勝手な大人に育ってしまうのでは?という疑問に対して

スタッフの村重です。「自由な学校も良いけど・・・」シリーズ第2弾ということで(^_^;)

最初にちょっと違う話から。
人権教育という分野があってそれが大切なのは間違いないのですが、そもそも教育現場それ自身の中で人権はちゃんと意識されているでしょうか?LGBTQの方だったり、アイヌ民族の方だったり、いわゆる少数派の方たちに対する人権意識もようやく浸透してきて(もちろん全然不十分だけど)すこしは前に進んだ気はします。少数派だからという理由で人権が阻害されているとすればとんでもない話で、それはダメでしょとたいていの人は思ってくれそうです。
だけど本当は少数派とか多数派とかいう問題ではありません。極論だけど、そもそも人はすべてたった一人だけの「少数派」。多少似たもの同士はいたとしても、元々一人ひとりはみんな違うし違っていい。(なんかSMAP風か?金子みすゞ風かな?)

つまり大切なのは「個人的人権」だと思うのですが、学校社会の中では「個人のわがままを許すのは良くない」という理屈で割と軽く扱われてきたように思われます。だって能力も性格も好奇心もみんな違うのに、同じ場所で同じ時間に同じ教科書を使って同じ勉強をするのがあたりまえだとみんな思ってきたわけです。そこを外れると、およそ変なヤツとかわがままな人間だというレッテルを貼られがちでした。日本の憲法の第13条に「すべての国民は個人として尊重される」とある割には、一斉一律を強要する学校に対しては実に寛容な態度で接してきたように思えてなりません。学校はそういう場所なんだから、という固定観念のせいで。だからといって、日本特有の集団意識をすべて否定する気もありませんけど…。

また、時に「学校」というのは集団訓練の場だと考える人もいます。まあ、国が都合よく言うこと聞いてくれる兵士を育成するには「学校」はもってこいの装置ではあります。でもさすがに今どきそこまでの集団訓練を想定する人はいないでしょう。実際には、多くの人は社会人としてルールを守って円滑な集団生活をできるようにする練習の場くらいに学校を捉えているのだと思います。わがままを言わず、みんな仲良くするためには我慢も忍耐力も身につける必要があるからと。

しかしながら実はそれは全く逆の結果を導いているように思えます。誰もが幸せになれるルールに則った穏やかな社会生活に必要なのは、本当は、我慢でも忍耐でも遠慮でも忖度でもなくて、「自由の相互承認」という原則を身につけることだと思います。ようは人の話をちゃんと聞いて、自分の意見をちゃんと言える。そういう力です。あたりまえですが、自由はわがまま勝手とは違います。自分が自由であるためにはすべての他者の自由もまた認めなければならないという大原則があって、それを理解し「他者への寛容」を学ばなければ自由な社会などけっして実現しないからです。

一斉一律に同じことを強制し、我慢と忍耐をを強いる方法が集団訓練だとしたら、たぶんそこでは「他者への寛容」は育ちようがありません。「オレも我慢しているのだからおまえも我慢しろ」とか、「ルールを守れないヤツは仲間に入れてやらない」といった排除や分断の論理に縛られた社会を作り上げることになりはしないでしょうか。むしろ差別やいじめの温床となり本当の人権意識にもたどり着けないような気がします。
「自由の相互承認」は話し合いと体験によってしか身につかないし、とても時間のかかることですが日本の学校ではずいぶんとなおざりにされてきたように思われます。

もちろんこれは私の個人的で一面的な見方に過ぎません。すべてそうだというつもりはありませんが、どこか心の中に「自分が自由に生きてないのに他人が自由にするのなんて認められるか!」といった意識があるとしたら、それがこれまでの学校がもたらした成果のような気がしてしまいます。

「自由な学校」と聞いて今回のテーマのような心配(誤解?)をされる方はほんとうにたくさんいらっしゃいます。それは私たちの受けた教育によってかなり強いバイアスがすり込まれているからではないでしょうか。

だから、自由な学校で学んだ子どもたちが、実に他者への思いやりにあふれ、寛容で自由の相互承認を身につけていることを知ると、とても信じられないと驚いたり、感動して涙を流したりすることになります。(ぜひ、映画「夢みる小学校」を見てください)彼らは小中学校の9年間、常に話し合いと体験の中から、自然とそれを身につけていくのです。

ここで冒頭の人権の話に戻りますが、確かに長い間学校では一人の先生のお話を一斉一律に聞くことがあたりまえでした。時々よそ見をして窓の外の風景とか、隣の席の女の子の横顔などをボーッと見ていたりするといきなりチョークが飛んできたりもしたものです。たいていの大人にとってそれはそれで良き思い出にはなりますが、そうした教室という空間ははたして人権の尊重された空間と言えるのか、少し疑問を持っても良いかと思ったのです。子どもたちは、その能力も性格も趣味嗜好も好奇心も一人ひとりすべて違うはずなのに、あまりに画一的に扱われ、あまつさえ、お互いを比較され優劣まで付けられるというのははたして人権の守られた空間と言ってよいものか。とても素朴な疑問なのでした。

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